まるで丸一日揺られていたくらいの被害妄想を抱き、たどり着いた瞬間に馬車から降りた緑雨。
太陽を見るも、その位置はまるで変化していない。
「お疲れ様。ほら、行くぞ」
緑雨は太陽から視線を下げ、聳え立つ壁を見た。
高さはおよそ一丈三尺。
緑雨が二人縦に並んだよりも頭二つ分ほど高い。
頑丈で武骨な素材を隠すように綺麗に塗られた白い護龍漆喰が太陽の光を受け、まるで皇宮そのものが輝いているように見える。
婉花に手を引かれ、緑雨は吐き気と戦いながら荘厳な皇宮の門をくぐった。
「私は陛下へ報告してまいりますので、お二人は先に現場へ。太監が案内に……」
「私がご案内しましょう」
よく手入れのされた甲冑を身に纏った威厳ある男性が近付いてきた。
婉花も緑雨もよく知る人物だ。
「聶卿ではありませんか。案内をお任せしてもいいのですか?」
「もちろんです、楊尚書。秘閣に入るために必要な許可証も持ってきております」
「とても助かります。では、お言葉に甘えて。私は失礼いたします」
四人は互いに拱手すると、楊はその場を後にした。
「演技は必要か?」
桐梓は小首をかしげながら尋ねた。
「皇宮だからな。官僚の前では知り合い程度の浅い対応で頼む」
「わかった。それにしても、緑雨は大きくなったな」
桐梓の瞳に陽だまりのような優しさが灯る。
「以前お会いした時よりも、身長が伸びました」
「そうかそうか。ちゃんと鍛えているようだし、偉いぞ。ご両親は元気か?」
「元気です。最近は兄上達に仕事を任せてよく旅行していますよ」
「さすが、富貴で暢気な夫婦だな。荘主は相変わらずか?」
「外叔上は楽しそうに忙しくしています。聶おじ上と戦いたがっているのは相変わらずです」
「そうか。そろそろ会いに行ってやらないとな」
桐梓は嬉しそうに微笑むと、「じゃ、さっそく暁鐘閣と香霧山荘の力を借りるとするかな」と、二人を連れて現場へ向かった。
緑雨の目に、色鮮やかな赤と空の青が映る。
皇宮内部は赤い鳳凰漆喰で彩られた一丈三尺の壁が格子状に張り巡らされており、内宮と外宮を分けている。
内宮は皇族の居住空間になっているため、政務などは外宮にある建物で行われるのが通常だ。
祁芳国皇宮は数百年間増改築を繰り返してきたという。
よく手入れが行き届いており、一度見ただけでは工事の跡などはわからない。
頭上で輝く黄金色の瑠璃瓦は皇宮でしか使うことを許されていない特注品で、太陽の光に照らされ威光を放っている。
良くも悪くも市井とは切り離された空間。
見えている衛兵の他に、何人もの見張りがいるようだ。
緑雨は四方八方から視線を感じた。
「お前は大丈夫なのか? 責任を問われたりとかは……」
初めて訪れた皇宮に少し緊張している緑雨の隣で、婉花は桐梓に尋ねた。
「ああ、大丈夫。皇宮に押し入られたのは禁軍の失態だし、大統領である私が悪い。表面上叱責は受けたけど、非常事態だからな。陛下も私を禁足処分にしている余裕はないだろう」
「そりゃそうだ。玉羽達人榜第三位の武人にはいてもらわないと」
「はいはい。お前の周りは三位ばっかりだな」
「たしかに」
仲の良い大人達の会話を聞きながら長く広い階段を上り、いくつかの道を通ってたどり着いたのは、機密書類が収められている秘閣、甘石巫堂。
厳重な守りを必要とする建物だが、書物に湿気は厳禁であるため、風通しを良くするために窓や通気口がすべて目の細かい鉄格子になっている。
三人が近付いていくと、その前方に薄紫色の深衣を纏った背の高い青年が立っているのが見えた。
雅な扇を手に、現場を観察しているようだ。
「おや、慧王殿下ではありませんか」
桐梓の声に、青年が振り返る。
緑雨は思わず目を見開いた。
身内以外で、大輪の芍薬さえ霞むほどの美しい人に出会ったのは初めてだったからだ。
まるでこの空間だけ時が止まったような胸が高鳴る眩しさに、一瞬眩暈がした。
「これはこれは、聶大統領。それと……」
緑雨は青年と目が合った瞬間、とっさに婉花の背に隠れてしまった。
四人は互いに拱手し、桐梓が一歩前へ出る。
「殿下、こちらは暁鐘閣の閣主、甘 婉花先生。隣にいるのは香霧山荘の虞 緑雨少仙です。この度、書物の盗難事案にご協力いただけることになりました」
「それはありがたい。甘閣主、虞少仙、初めまして。私は祁芳国の末皇子、魏 懐愿と申します」
懐愿は三人に近付きながら、わざと緑雨に微笑んだ。
「お会いできて光栄です、慧王殿下。玉羽江湖でも、ご高名はかねがね聞き及んでおります。華やかなお姿からは想像できないほど、軍功がおありだとか」
「歴戦の猛者である聶卿の前でお恥ずかしい。大したことはありません。敵将の中に、私と戦える資格がある者が皆無だっただけです」
懐愿の言葉に、婉花は大いに喜んだようで、緑雨でさえ今まで数えるほどしか見たことないほどの好奇心に揺さぶられた笑顔を浮かべている。
「先ほど、虞少仙が香霧山荘の者だと聞きましたが、もしやこの毒粉をどうにかできるのでしょうか」
懐愿の煌めく瞳が緑雨に注がれる。
「あ、えっと、出来ます、で、殿下」
緑雨は恥ずかしさを誤魔化すために仕事に没頭しようと、口と鼻を布で覆い、毒粉の中へと進んで行った。
「え、危ないのでは?」
懐愿が緑雨を引き戻そうと手を伸ばすのを、婉花がそっと手で制した。
「見ていてください」
緑雨は極狭い範囲で仙力の風を巻き起こすと、毒粉を舞い上げ、風の中へと閉じ込めた。
そして、素手でそれに触れる。
「……性格の悪い毒だな」
人間が触れれば、たちまち肌は焼け爛れ、一刻と経たずに皮膚が壊死するだろう。
「妖精の肌が人間にもたらす症状とよく似ている」
緑雨は空から寒影根、凍表枝、冥黒仁、火防風を含むいくつかの生薬を取りだし、仙風で粉にしてから毒粉に混ぜた。
すると、毒粉は見る見るうちに赤から白に変わり、最後は無害な液体となって霧散した。
陽の光を受け、小さな虹がふわりとかかる。
「なんと美しい。本人が麗しい貴公子ならば、使う術もそれに準ずるのだな」
懐愿は広げた扇で口元を隠しながら微笑み、緑雨を見つめた。
緑雨は顔から布を外しながら、ぎこちなく微笑んだ。
「ど、どうも……。解毒薬が出来ましたので、聶大統領にお渡ししてもよろしいでしょうか。この粉を毒粉にかけるだけで大丈夫です」
「もちろんです。では、他の現場もこれで解毒してしまいましょう」
桐梓は部下を呼ぶと解毒用の粉が入った袋を渡し、全ての現場に撒くよう指示した。
「やっと私の出番ですね。さっそく、中を見せていただきましょう」
婉花は甘石巫堂の中へ入ると、床に落ちている書物を一つ一つ確認しながら棚を見て回った。