風が葉を弾き、朝露が陽の光に揺れる。
静謐な時の中、鐘の音が鳴り響いた。
それは暁鐘閣へ助言を求めて来た依頼の証。
当番の書生が小走りで波長の主の元へと向かう。
「お待たせいたしました。ご用件をうかがいます」
書生が拱手しながら問うと、楊は焦りと期待が入り交じった表情で言う。
「甘閣主へお取次ぎいただけますでしょうか。皇宮のすべての書房から、書物が盗まれてしまったのです」
書生は一瞬目を見開くと、「こちらへどうぞ」と、楊と二人の侍従を暁鐘閣内へ案内した。
中へ入った楊は窓辺の小上がりになった席へ案内され、「少々お待ちください」と告げる書生の背を見送った。
「旦那様、本当に協力してもらえるでしょうか」
侍従の一人が不安そうな面持ちで室内を見渡す。
「大丈夫。この天下で甘先生よりも書物を愛する者などいない」
それでも、一抹の不安は残る。
楊は机に置いてある茶器からあたたかな茶を碗に注ぎ、口をつけた。
深呼吸を繰り返している途中で、待ちに待った人物がゆっくりと階段を下りて来る姿が目に入る。
そのそばには、少女と見紛うほど美しい少年が一人。
楊は立ち上がり、姿勢を正した。
「お待たせいたしました、楊尚書」
互いに拱手し、席に着く。
「私をご存知なのですね」
「ええ、まあ」
婉花は、禁軍大統領と友達です、などと言えるわけもなく、言葉を濁した。
「皇宮の書物が盗まれたと聞きましたが」
「そうなのです。それも大問題なのですが、その、盗みに入ったのが……」
楊は俯き、手を震わせながら言う。
「旱雲飛火の手口を真似ているのか、それとも残党なのか……。とにかく、赤い毒粉の除去が出来ず、盗まれた書の確認もままならないのです。どうかご助力願えますでしょうか」
楊はたまらず稽首し、侍従達もそれに倣った。
「頭を上げてください。楊尚書の置かれている状況がとても厳しいものだということはわかりました。書物のことでしたら喜んで協力いたします。ただ、それに付随する事案の解決にはどの程度お力添えできるかわかりませんが……」
楊は跳ねるように上半身を戻し、婉花を見つめた。
「毒粉の解毒なら、虞少仙が力になれるでしょう」
婉花の白く形のいい手が緑雨に添えられた。
「香霧山荘梅氏、虞 緑雨と申します」
「こ……、香霧山荘の公子もいらっしゃるとは……」
楊は開いた口に手を添えて身体を引いた。
香霧山荘と言えば、天下にある生薬すべてを所有しており、多数の神医を輩出している名門一族。
玉羽富豪榜第三位なだけあって、複数の州を縄張りとしており、各地にある広大な薬草畑からは常に清廉ないい香りがすると評判だ。
江湖に興味の無い庶民でも、その名を聞いたことがあるほど。
「では、さっそく参りましょう。おそらく、楊尚書には時間がないでしょうから」
「な、なぜそれを」
「侍従はたった二人。夜通し馬を乗り継ぎ、客桟に泊まる暇もなかったのでしょう。二品の官僚ならば体裁を気にして途中で着替えるはず。なのにあなたの服の裾は土埃で汚れている。急いでいる証拠です」
婉花は微笑むと、窓の外に向かって指笛を吹いた。
すると、彼方から白い光が近付いてきた。
それはどんどんと姿を見せ、大きく、広くなっていく。
「こ、これは」
「三足烏の朔です。可愛いでしょう」
窓のすぐ外、輿の上部に渡っている頑丈な梁を掴む白い三本の足。
婉花は楊達を外へ連れ、その姿を見せた。
「じゅ、純白の烏だ」
翼を広げればその内側に馬十頭はならびそうなほどの巨躯と、それを覆う柔らかな羽毛。
空のように青い眼は見た目に反してとても優しい。
「この子ならば馬の四倍は速く華芳へ着きます。さあ、乗ってください」
楊とその侍従二人は恐る恐る輿に乗り込んだ。
続いて婉花も乗り込む。
「虞公子は乗らないのですか?」
「緑雨は仙士なので、自分で飛べます」
婉花の言葉通り、楊の目の前で緑雨は宙へと浮かび上がった。
その背には初夏の新緑のような色をした羽衣を揺蕩わせて。
「まるで天女のようですね」
うっとりと眺める楊の姿に、婉花はつい笑ってしまう。
「虞少仙は可憐ですから」
そんな婉花の笑みに緑雨は何とも言い難い悔しい気持ちを抱えながら、三足烏に合図を出した。
輿が浮かぶ。
緑雨を先頭に、一行は祁芳国の首都華芳へ向けて飛び立った。
時間にして僅か一刻半。
楊とその侍従達にとってはもう少し長く感じたかもしれない遊覧飛行。
顔色は出発時に比べて些か青白いが、見えてきた地面にほっとしたようだ。
城門を守っている都督府の兵が武器を携え怯えた表情をしている中、まずは緑雨が降り立った。
その背から、新緑の羽衣が光と成って消えていく。
続いて三足烏がゆっくりと輿を降ろし、大人しく羽ばたきをやめた。
緑雨は空から妖怪の肉片を取り出し、「よく頑張ったね」と、三足烏に投げて与えた。
「な、何者だ!」
兵達が集まって来た。
四丈ほどある高い城壁の上では、門の上に建つ楼閣や壁廊に弓兵が待機し、矢を携え狙いを定めようとしている。
そこへ、口元を抑え吐き気を我慢しながら輿を下りた楊が進み出る。
「楊尚書! これはいったい……」
「か、彼らは暁鐘閣の甘閣主と香霧山荘の虞少仙だ。無礼な真似はやめろ」
都督府兵はいっせいに姿勢を正すと、抱拳礼で全員を迎え入れた。
「大変失礼いたしました。どうぞお通り下さい。ただ、その……」
「ああ、すみません。三足烏は近くの山に待機させますので、輿だけ預かっていただけますか」
「か、かしこまりました」
兵達が動揺する中、婉花が指笛を吹くと、三足烏は視線の先にある山へと飛び立っていく。
風が巻き起こり、灰神楽が舞う。
煌めきの中に立つ緑雨と婉花の姿に、その場にいた全ての人々が見惚れて立ち止まった。
「楊尚書、こちらを噛むと気分がよくなりますよ」
緑雨が差し出した一枚の葉を、楊はすぐに口へ放り込んだ。
「……美味しい」
「清脈葉といって、体内の水分量を整え、平衡感覚を取り戻す手伝いをしてくれるんです」
そう言って微笑む緑雨の笑顔に見とれて少し照れながら、楊は「では、皇宮まで馬車で参りましょう」と提案し、侍従に手配させた。
数分と経たず、迎えの馬車がやってきた。
楊達は前方の馬車に、緑雨と婉花は後方の馬車へと乗り込んだ。
都城内の道は整備されているとはいえ、馬車はガタガタと音を立てて揺れる。
婉花はこみ上げる可笑しさが止まらず、ついに声に出して堂々と笑いだした。
「まさか馬車に乗る羽目になるとはな。大丈夫か? 大丈夫じゃないな? 可哀そうに」
「お、面白がってますよね……」
緑雨の顔はみるみる色を失くし、青くなっていく。
「神仙の子供のくせに乗り物酔いとは……。まったくもって残念だな」
「仕方がないでしょう。こればかりは個性の範囲です」
緑雨は清脈葉を取りだし、口に含んだ。
「そんなもので気分がよくなるなら自分で飛んだりしないだろう」
「いいんです。気休めですから」
緑雨は心を無にしながら、なるべく馬車に乗っているという事実から逃避しようと努力した。
しかし、そんなものは当然無駄である。
「皇宮までは一本道だ。すぐに着く」
「期待してます……」