透き通るほどの冷たさを含む初春の風が、火の粉を散らす。
「賊だ! 賊が現れたぞ!」
月が照らす深き夜。
煌々と燃える篝火を揺らすように、危急を知らせる銅鑼の音と怒号が飛び交う。
祁芳国首都華芳の皇宮に何者かが侵入し、皇宮守護の禁軍兵がせわしなく走り回っている。
一丈三尺もの高い壁に映る兵たちの影は、まるで漆黒の巨人のよう。
「くまなく探せ! まだそう遠くへは行っていないはずだ」
当直だった兵から知らせを聞き、禁軍大統領が到着した時にはすでに遅く、紫微院、太微殿、天市館からあらゆる書物が奪われたあとだった。
「まさか、秘閣もか! 誰か都督府へ行き、城門の警護を強化するように伝えてこい!」
国家機密を記した書物が収められている秘閣、甘石巫堂は三つの書房の鍵がないと開けることは出来ない。
しかし、皇宮へ入り込んだ者達はそれを知っていたようだ。
桐梓の目に映ったのは、一面の深紅。
「やられた」
甘石巫堂は荒らされ、室内には真っ赤な粉がまき散らされていた。
それは他三つの書房も同じ。
現場を見た老年の太監から、小さな悲鳴が上がる。
「聶卿、この粉に触れてはなりません。触れればたちまち肌が焼け爛れてしまいますぞ」
「なぜそれをご存知なのですか」
桐梓が太監に説明を求めようとしたその時、背後から名前を呼ぶ声がした。
「聶卿」
「喬侍郎。迅速な対応に感謝します」
刑部侍郎の喬が甘石巫堂の惨状を見ながら顔を顰める。
「もうすぐ尚書方も到着します」
「高尚書だけではなく、他の方々もですか」
「どうやら戸部の書房から貿易目録や、皇宮内の薬房から処方箋なども盗まれたようです。それに大理寺の書庫も同じような被害に遭ったとか」
「そんな……。大理寺までとなると、範囲が広すぎる」
桐梓は未だかつてない異様な事態に、冷たい汗が流れた。
「禁軍でも防ぐことが出来なかった事態です。都を警邏している京護営ではもっと無理でしょう。幸い、内宮は無事のようですし。賊が入ったのは外宮だけのようですね」
桐梓の指示で皇宮の警護が固められ、錦吾衛が総出で皇帝の居殿周りを埋め尽くす。
禁軍兵によって侵入者がすでに去り安全が確認されると、尚書たちが甘石巫堂へ集まってきた。
「聶卿。こんな時に言う言葉ではありませんが、安心なされよ。あなたに責任は無い」
白の混じるひげを蓄えた刑部尚書の高が険しい表情で言った。
「なぜですか、高尚書」
「楊尚書ならば、その意味がわかるでしょう」
礼部尚書の楊が身体をこわばらせ、寒空に似合わないほど額に汗を浮かべた。
大勢の視線が注がれる中、楊は震える声で言葉を絞り出す。
「こ、この赤い粉は……、私がまだ礼部侍郎だった時の前任者、季尚書が持っていた諜報機関、旱雲飛火によるものだと思われます」
雪が降り始めた。
全ての音が吸収されていくように、静まり返る。
張りつめた空気は、さらに凍てついていく。
「な……。か、旱雲飛火ですと? 暗殺も請け負っていたという、あの? 先帝が崩御する前に季尚書含め一族もろとも処刑されたはずでは?」
戸部尚書の干が詰め寄った。
「そ、そのはずです。当時、私は大理寺に調査され、身の潔白が証明されたために今こうして生きているのです。それなのに、もし本当に旱雲飛火の仕業だとしたら……」
「疑われるのは貴殿ということになりましょう」
桐梓は事の重大さに大きくため息をついた。
「当時禁軍大統領を務めていた父上から聞いたことがあります。なんでも、旱雲飛火は華芳のみならず皇宮内の全てを知り尽くしており、誰にも気づかれることなく侵入しては皇子を数人亡き者にしたとか」
「そうです。だからこそ、今回の事案で聶卿が裁かれることは無いでしょう。誰も死んではいませんからね」
兵部尚書の孫は大きく頷きながら言った。
続けて孫は楊の方を向き、首を真横に振りながら言う。
「楊尚書、このままでは金御史大夫と劉尚書の餌食になりますぞ」
「そんな、御史台に上奏されたら終わりです! 吏部尚書は簡単に私を罷免するでしょう」
全身を震わせて泣き始めた楊を見下ろしながら、高は声色を和らげて声をかける。
「とにかく、陛下から命じられる前に自ら大理寺へ調査を願い出るしかないでしょう。牢にでも入って誠意を見せるのですな。そうでないと、貴殿まで前任者と同じく凶悪な外交手段を用いたと疑われますぞ。界牢まで喬侍郎に案内させましょう」
「刑部は調査してくださらないのですか」
「十八年前に終わったはずの事案が繰り返されたのですから、もちろん調査はしますが……。おそらく、機密書類の盗難被害の方が重いでしょう。陛下も機密情報が漏れたことへの調査を命じるはずです」
楊は尚書達が自分と距離を取りたがっていることを察し、涙を拭って姿勢を正した。
「一日だけ、私に時間をください。助けを求めに行ってまいります」
「いったい、どこへ?」
「玉羽江湖の、暁鐘閣です」
尚書達の話を聞きながら現場を目視していた桐梓は、「良い考えだ」と小さく呟いた。
「玉羽江湖……。楊尚書、残念だが、暁鐘閣は朝廷とは距離を置いていると聞きます。懇願したところで聞き入れてもらえるかわかりませんぞ」
孫を始めとする尚書達の顔色は同情一色。
それでも、楊は手で紫の官服をぎゅっと握りしめながら言う。
「いえ、大丈夫です。暁鐘閣の図書所蔵数は天下一。私のことはどうでもよくても、書物が狙われ盗まれたことに興味を持ってくれるはずです」
楊の言葉に尚書達は呆れ、「では、一日だけ時間をもらえるよう陛下に進言しておきましょう」と言い、その場を離れていった。
重い足取りながらも、さっそくその場から速足で立ち去る楊の背を見つめ、桐梓は口元だけで微笑んだ。
「あいつなら、興味を持つだろうよ」
☆
月光の中、うっそうとした林を歩く三人の青年。
竹で出来た箱を背負い、少しふらつきながら進んで行く。
風が葉を揺らす。
声も無く、月の光だけを頼りに、それ以外の灯りは持っていない。
刹那、金属の触れ合う音が響く。
青年達は歩みを止め、じっとその場に立つ。
半時後、静寂の後、青年達の前に一人の少年が降り立った。
黒く艶やかな髪が、月の光で煌めく。
「急ぎましょう。血のにおいで妖怪まで集まってきてしまうかもしれません」
「わかった。いつもありがとう、緑雨」
「虞少仙がいれば安心だな」
「これが仕事ですから」
虞 緑雨は頬についた返り血を拭いながら、春の陽射しのような暖かな笑顔を浮かべた。
青年達は再び上空へ戻って行く緑雨を見上げて手を振ると、今度は急ぎ足で林を抜けていった。
一刻後、肌を掠める空気が変化した。
清らかで、豊かな草木の香り。
滝の水しぶきが、夜空を彩る星々のように輝いている。
美しい景色と同化するように建つのは、天下一の蔵書数を誇る暁鐘閣。
月の光が紺碧の瑠璃瓦に反射して艶めく。
「おお、帰ったか」
純白の深衣をひらめかせながら空から降りてきたのは、麗しい容姿に聡明な知性を併せ持つ、暁鐘閣の閣主、甘 婉花。
「甘閣主! ただいま戻りました」
青年達は拱手すると、暁鐘閣の中へ入って行った。
「緑雨もご苦労だった」
緑雨は婉花に近付き、拱手した。
「夜盗が三組ほどだったので、てこずることはありませんでした」
「先帝の禁書令から一転、皇帝が徴書令なんて出すから我々のようなか弱い書生が狙われるのだ。勘弁してほしいね」
十七年程前、先帝の崩御により即位した皇帝は、科挙制度の充実と文化面での繁栄を求め、天下にあるすべての書を余すことなく集めて保管する徴書令を発した。
その甲斐あってか、挙士の学力は向上し、民の識字率も増加したのだが、それにともない書物を巡る犯罪が増えてしまったのも事実。
皇宮に無い書物を見つけて献上すると一冊につき銀子五両がもらえることもあり、暁鐘閣のように天下の書物を写本して集める書生が狙われる事案が多く発生している。
緑雨はそんな書生達の護衛を仕事としている仙士なのだ。
「閣主が、か弱い……?」
緑雨の少女のような可愛らしい容姿が、月の光で強調される。
「か弱いだろう。お前の父親にも香霧山荘荘主にも禁軍大統領にも一度も勝ったことがないのだから」
「比べる対象がおかしいのでは」
「玉羽達人榜と富豪榜に載っている奴らはいいよなぁ」
緑雨は困ったように笑いながら、「さあ、写本を確認しましょう」と婉花の背を押して暁鐘閣へと入って行った。
上は七階層、下は三階層にわかれており、どの階にも所狭しと書物が収めてある。
その蔵書数は約五十万部、約百五十万巻。
現在皇宮の蔵書が約九千部、約一万五千巻なのだから、その差は歴然。
先帝が禁書令を出し異民族の書物を焚書したのも原因ではあるが、それにしてもこの差は大きい。
「閣主、本日持ち帰った書物はすべて並べておきました。ご確認よろしくお願いいたします」
「ご苦労。お前たちは湯浴みしてもう寝なさい」
書生三人は拱手して自室へと向かって行った。
婉花は机に置かれている書物をめくっては閉じ、小さくため息をつく。
「やはり簡単にはいかないな」
緑雨に向けられた婉花の視線は慈愛に満ちているのに、ひどく悲しい。
「いいんです。だいぶ操れるようになりましたから」
「お前が諦めてどうする。氷鳴律が治れば……」
「氷鳴律は不治の呪です。わたしのことで時間を無駄にしないでください」
屈託のない笑みを浮かべる緑雨の言葉に、婉花は心臓が大きく沈むような苦しさを感じた。
「頑固な奴だ、まったく。お前も湯浴みして寝ろ」
「お先に失礼します」
緑雨は拱手し、その場を後にした。
ひんやりとした自身の手を見つめ、ぎゅっと握りながら。