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緑紅煙雨
緑紅煙雨
智郷めぐる
異世界ファンタジー戦記
2025年01月17日
公開日
2.3万字
連載中
ある日、皇宮の図書管理機構からいくつもの書が盗まれた。
賊は機密書類などもおさめられた秘閣《ひかく》にも侵入したようだが、現場はひどく荒らされており、いったいどんな書が何点盗まれたのかわからない。
そこで、窃盗への関与を疑われた官僚は自ら江湖にあるとても有名な楼閣へ力を貸してもらいに行くことに。
その楼閣には、これまでの歴史で綴られてきた全ての書物の原本や写本があるという。
皇宮へやってきた楼閣の閣主《かくしゅ》と調べ始めると、次々に失われた書が判明。
その一つ一つの行方を探さなくては、新たな事件が次々と起こる可能性がある。
そこで、普段から閣主の手伝いをしている少仙《しょうせん》、虞《ユー》 緑雨《リュユー》と、何故か一緒に行くと言い張る第五皇子の魏《ウェイ》 懐愿《フゥァイユェン》が旅に出ることに。
誰が何の目的で書を盗み、何を企んでいるのかを探るために。


※毎週火曜日20時~、金曜日22時~、更新。

※未成年者の飲酒は健康に悪影響を与える可能性があり、法律で厳しく制限されています。物語内での描写はフィクションであり、現実世界での行動を助長するものではありません。
※本作は架空の中華風ファンタジー世界を舞台にしており、実際の歴史や文化からインスピレーションを受けていますが、物語の世界観に合わせて、時代設定や文化については柔軟なアレンジを加えています。そのため、厳密な時代考証には従っていませんので、あらかじめご了承ください。

第一集:賊

 透き通るほどの冷たさを含む初春の風が、火の粉を散らす。

「賊だ! 賊が現れたぞ!」

 月が照らす深き夜。

 煌々と燃える篝火を揺らすように、危急を知らせる銅鑼の音と怒号が飛び交う。

 祁芳きほう国首都華芳かほうの皇宮に何者かが侵入し、皇宮守護の禁軍きんぐん兵がせわしなく走り回っている。

 一丈三尺もの高い壁に映る兵たちの影は、まるで漆黒の巨人のよう。

「くまなく探せ! まだそう遠くへは行っていないはずだ」

 当直だった兵から知らせを聞き、禁軍きんぐん大統領が到着した時にはすでに遅く、紫微しび院、太微たいび殿、天市てんし館からあらゆる書物が奪われたあとだった。

「まさか、秘閣ひかくもか! 誰か都督府ととくふへ行き、城門の警護を強化するように伝えてこい!」

 国家機密を記した書物が収められている秘閣ひかく甘石巫かんせきふ堂は三つの書房の鍵がないと開けることは出来ない。

 しかし、皇宮へ入り込んだ者達はそれを知っていたようだ。

 桐梓トンズーの目に映ったのは、一面の深紅。

「やられた」

 甘石巫かんせきふ堂は荒らされ、室内には真っ赤な粉がまき散らされていた。

 それは他三つの書房も同じ。

 現場を見た老年の太監たいかんから、小さな悲鳴が上がる。

ニィェ卿、この粉に触れてはなりません。触れればたちまち肌が焼けただれてしまいますぞ」

「なぜそれをご存知なのですか」

 桐梓トンズー太監たいかんに説明を求めようとしたその時、背後から名前を呼ぶ声がした。

ニィェ卿」

チィァォ侍郎じろう。迅速な対応に感謝します」

 刑部けいぶ侍郎じろうチィァォ甘石巫かんせきふ堂の惨状を見ながら顔を顰める。

「もうすぐ尚書しょうしょ方も到着します」

ガオ尚書しょうしょだけではなく、他の方々もですか」

「どうやら戸部こぶの書房から貿易目録や、皇宮内の薬房から処方箋なども盗まれたようです。それに大理寺だいりじの書庫も同じような被害に遭ったとか」

「そんな……。大理寺だいりじまでとなると、範囲が広すぎる」

 桐梓トンズーは未だかつてない異様な事態に、冷たい汗が流れた。

禁軍きんぐんでも防ぐことが出来なかった事態です。都を警邏している京護営けいごえいではもっと無理でしょう。幸い、内宮は無事のようですし。賊が入ったのは外宮だけのようですね」

 桐梓トンズーの指示で皇宮の警護が固められ、錦吾衛きんごえいが総出で皇帝の居殿周りを埋め尽くす。

禁軍きんぐん兵によって侵入者がすでに去り安全が確認されると、尚書しょうしょたちが甘石巫かんせきふ堂へ集まってきた。

ニィェ卿。こんな時に言う言葉ではありませんが、安心なされよ。あなたに責任は無い」

 白の混じるひげを蓄えた刑部尚書しょうしょガオが険しい表情で言った。

「なぜですか、ガオ尚書しょうしょ

ヤン尚書しょうしょならば、その意味がわかるでしょう」

 礼部尚書のヤンが身体をこわばらせ、寒空に似合わないほど額に汗を浮かべた。

 大勢の視線が注がれる中、ヤンは震える声で言葉を絞り出す。

「こ、この赤い粉は……、私がまだ礼部れいぶ侍郎じろうだった時の前任者、ジー尚書しょうしょが持っていた諜報機関、旱雲飛火かんうんひかによるものだと思われます」

 雪が降り始めた。

 全ての音が吸収されていくように、静まり返る。

 張りつめた空気は、さらに凍てついていく。

「な……。か、旱雲飛火かんうんひかですと? 暗殺も請け負っていたという、あの? 先帝が崩御する前にジー尚書しょうしょ含め一族もろとも処刑されたはずでは?」

 戸部こぶ尚書のユーが詰め寄った。

「そ、そのはずです。当時、私は大理寺だいりじに調査され、身の潔白が証明されたために今こうして生きているのです。それなのに、もし本当に旱雲飛火かんうんひかの仕業だとしたら……」

「疑われるのは貴殿ということになりましょう」

 桐梓トンズーは事の重大さに大きくため息をついた。

「当時禁軍きんぐん大統領を務めていた父上から聞いたことがあります。なんでも、旱雲飛火かんうんひか華芳かほうのみならず皇宮内の全てを知り尽くしており、誰にも気づかれることなく侵入しては皇子を数人亡き者にしたとか」

「そうです。だからこそ、今回の事案でニィェ卿が裁かれることは無いでしょう。誰も死んではいませんからね」

 兵部へいぶ尚書しょうしょスンは大きく頷きながら言った。

 続けてスンヤンの方を向き、首を真横に振りながら言う。

ヤン尚書しょうしょ、このままではジン御史大夫ぎょしたいふリィウ尚書しょうしょの餌食になりますぞ」

「そんな、御史台ぎょしだいに上奏されたら終わりです! 吏部りぶ尚書しょうしょは簡単に私を罷免するでしょう」

 全身を震わせて泣き始めたヤンを見下ろしながら、ガオは声色を和らげて声をかける。

「とにかく、陛下から命じられる前に自ら大理寺だいりじへ調査を願い出るしかないでしょう。牢にでも入って誠意を見せるのですな。そうでないと、貴殿まで前任者と同じく凶悪な外交手段を用いたと疑われますぞ。界牢かいろうまでチィァォ侍郎じろうに案内させましょう」

刑部けいぶは調査してくださらないのですか」

「十八年前に終わったはずの事案が繰り返されたのですから、もちろん調査はしますが……。おそらく、機密書類の盗難被害の方が重いでしょう。陛下も機密情報が漏れたことへの調査を命じるはずです」

 ヤン尚書しょうしょ達が自分と距離を取りたがっていることを察し、涙を拭って姿勢を正した。

「一日だけ、私に時間をください。助けを求めに行ってまいります」

「いったい、どこへ?」

玉羽江湖ぎょくうこうこの、暁鐘閣ぎょうしょうかくです」

 尚書達の話を聞きながら現場を目視していた桐梓トンズーは、「良い考えだ」と小さく呟いた。

玉羽江湖ぎょくうこうこ……。ヤン尚書しょうしょ、残念だが、暁鐘閣ぎょうしょうかくは朝廷とは距離を置いていると聞きます。懇願したところで聞き入れてもらえるかわかりませんぞ」

 スンを始めとする尚書しょうしょ達の顔色は同情一色。

 それでも、ヤンは手で紫の官服かんふくをぎゅっと握りしめながら言う。

「いえ、大丈夫です。暁鐘閣ぎょうしょうかくの図書所蔵数は天下一。私のことはどうでもよくても、書物が狙われ盗まれたことに興味を持ってくれるはずです」

 ヤンの言葉に尚書しょうしょ達は呆れ、「では、一日だけ時間をもらえるよう陛下に進言しておきましょう」と言い、その場を離れていった。

 重い足取りながらも、さっそくその場から速足で立ち去るヤンの背を見つめ、桐梓トンズーは口元だけで微笑んだ。

「あいつなら、興味を持つだろうよ」





 月光の中、うっそうとした林を歩く三人の青年。

 竹で出来た箱を背負い、少しふらつきながら進んで行く。

 風が葉を揺らす。

 声も無く、月の光だけを頼りに、それ以外の灯りは持っていない。

 刹那、金属の触れ合う音が響く。

 青年達は歩みを止め、じっとその場に立つ。

 半時三十分後、静寂の後、青年達の前に一人の少年が降り立った。

 黒く艶やかな髪が、月の光で煌めく。

「急ぎましょう。血のにおいで妖怪まで集まってきてしまうかもしれません」

「わかった。いつもありがとう、緑雨リュユー

ユー少仙しょうせんがいれば安心だな」

「これが仕事ですから」

 ユー 緑雨リュユーは頬についた返り血を拭いながら、春の陽射しのような暖かな笑顔を浮かべた。

 青年達は再び上空へ戻って行く緑雨リュユーを見上げて手を振ると、今度は急ぎ足で林を抜けていった。

 一刻二時間後、肌を掠める空気が変化した。

 清らかで、豊かな草木の香り。

 滝の水しぶきが、夜空を彩る星々のように輝いている。

 美しい景色と同化するように建つのは、天下一の蔵書数を誇る暁鐘閣ぎょうしょうかく

 月の光が紺碧の瑠璃瓦に反射して艶めく。

「おお、帰ったか」

 純白の深衣しんいをひらめかせながら空から降りてきたのは、麗しい容姿に聡明な知性を併せ持つ、暁鐘閣ぎょうしょうかく閣主かくしゅガン 婉花ワンファ

ガン閣主かくしゅ! ただいま戻りました」

 青年達は拱手きょうしゅすると、暁鐘閣ぎょうしょうかくの中へ入って行った。

緑雨リュユーもご苦労だった」

 緑雨リュユー婉花ワンファに近付き、拱手きょうしゅした。

「夜盗が三組ほどだったので、てこずることはありませんでした」

「先帝の禁書令きんしょれいから一転、皇帝が徴書令ちょうしょれいなんて出すから我々のようなか弱い書生が狙われるのだ。勘弁してほしいね」

 十七年程前、先帝の崩御により即位した皇帝は、科挙制度の充実と文化面での繁栄を求め、天下にあるすべての書を余すことなく集めて保管する徴書令ちょうしょれいを発した。

 その甲斐あってか、挙士きょしの学力は向上し、民の識字率も増加したのだが、それにともない書物を巡る犯罪が増えてしまったのも事実。

 皇宮に無い書物を見つけて献上すると一冊につき銀子ぎんす五両がもらえることもあり、暁鐘閣ぎょうしょうかくのように天下の書物を写本して集める書生が狙われる事案が多く発生している。

 緑雨リュユーはそんな書生達の護衛を仕事としている仙士せんしなのだ。

閣主かくしゅが、か弱い……?」

 緑雨リュユーの少女のような可愛らしい容姿が、月の光で強調される。

「か弱いだろう。お前の父親にも香霧山荘こうむさんそう荘主そうしゅにも禁軍きんぐん大統領にも一度も勝ったことがないのだから」

「比べる対象がおかしいのでは」

玉羽達人榜ぎょくうたつじんぼう富豪榜ふごうぼうに載っている奴らはいいよなぁ」

 緑雨リュユーは困ったように笑いながら、「さあ、写本を確認しましょう」と婉花ワンファの背を押して暁鐘閣ぎょうしょうかくへと入って行った。

 上は七階層、下は三階層にわかれており、どの階にも所狭しと書物が収めてある。

 その蔵書数は約五十万部、約百五十万巻。

 現在皇宮の蔵書が約九千部、約一万五千巻なのだから、その差は歴然。

 先帝が禁書令きんしょれいを出し異民族の書物を焚書ふんしょしたのも原因ではあるが、それにしてもこの差は大きい。

閣主かくしゅ、本日持ち帰った書物はすべて並べておきました。ご確認よろしくお願いいたします」

「ご苦労。お前たちは湯浴みしてもう寝なさい」

 書生三人は拱手きょうしゅして自室へと向かって行った。

 婉花ワンファは机に置かれている書物をめくっては閉じ、小さくため息をつく。

「やはり簡単にはいかないな」

 緑雨リュユーに向けられた婉花ワンファの視線は慈愛に満ちているのに、ひどく悲しい。

「いいんです。だいぶ操れるようになりましたから」

「お前が諦めてどうする。氷鳴律ひょうめいりつが治れば……」

氷鳴律ひょうめいりつは不治ののろいです。わたしのことで時間を無駄にしないでください」

 屈託のない笑みを浮かべる緑雨リュユーの言葉に、婉花ワンファは心臓が大きく沈むような苦しさを感じた。

「頑固な奴だ、まったく。お前も湯浴みして寝ろ」

「お先に失礼します」

 緑雨リュユー拱手きょうしゅし、その場を後にした。

 ひんやりとした自身の手を見つめ、ぎゅっと握りながら。


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