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第20話 満月

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 二、三日寝てだいぶ復調した。

 久しぶりに病院にも行くと、医者に『もっとマメに来る様に。でないと治るモノも治らない』と小言を云われたが……まぁいいさ。

 なんといっても此方は不治の病の「脳先生」なのだから。

 帰りに資料本の購入の為に足を伸ばして丸善まで行った。あとは大切な用事の為、神保町と銀座の宝飾店にも寄った。

 軽く人酔いしたし、乗り物酔いもした。

 なんて脆弱な身体なんだと自嘲する。

 トロトロと家に帰る。家周りには未だ赤い椿の絨毯がひかれており、少し陶然とする。

「ただいま」

「先生。おかえりなさいまし。またお顔の色が優れません。少し横になられては?」

「そうだね。そうするよ。悪いけれど熱い番茶をいれてくれるかい」

「承知しました。何か軽いモノも召し上がって下さいな。ご用意いたしますから」

 スタスタと台所に消えるタエさんの後ろ姿を見送り、しみじみと良い家政婦が来てくれたと思う。


 タエさんが用意してくれた茶と梅がゆを喰うと身体が温まった。

 腹に温かいモノを入れたせいか、ようやく気持ちの方のハラも決まり、書斎に向かう。

 原稿用紙をのぞき込む。

 ああ。居る──。

 活字の海を右往左往する人魚が見える。

 もどかしい。

 早く連れ戻してあげないと。

 そうだ。人魚よ。お前が戻ってきてくれたら一番にあげたいものがあるんだ。

 ビー玉なんかじゃない。

 もちろんそれも素敵だけれど、花嫁に相応しい、もっと上等なモノだ。

 その為に今日は外出したんだ。

 きっと喜んでくれると思うよ。


 僕は、お前の事を大切に思えば思うほど、母や父、そして文恵のように目の前から消えてしまうのはないかと怖かった──そしてそれは想像していた通りになった。

 だが、小柳君の云うとおり、もし僕に通力が少しでもあって想像したモノがその通りになるというのであれば、強く、強く願おう。

 そうして書こう。


 僕には空想することと書くことしかできないが、それが本当に僕の定められた生業でお前の生きる術なのだと思えば、書くことが出来る。書き続けることが出来る。

 僕が生きている限り、お前は死なないし、たとえ僕が死んだとしても、その時にはそれこそ文学の海に心中しようじゃないか。


 海の水は塩辛い。涙も塩辛い。活字の海の水もさぞかし塩辛いことだろう。

 だが、お前には我が家の甘い井戸の水の方があっているんだ。

だから……だから、どうかお前は……お前だけは一生僕の側に居ておくれ。

 僕は息を大きく吸いこむと、ゆっくり深く吐き出した。


「よし」


 呼吸を整え、自身を固定するかのようにしかと胡座をかく。

 そうして原稿用紙に向かうと、万年筆を手に取り一心不乱に書き出した──。


 空には白々と満月が昇っていた。

 長い悪夢がようやく終わろうとしている。



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