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第13話 熱意と過去

「先生、私は先生の作品に憧れて編集者になったのです。……ですので金魚鉢に人魚が居ようと居なかろうと、その人魚が先生にだけ見えていようが、見えていなかろうが、どっちだって構いやしません。でも」

「でも?」

「そのお話、書いて下さいませんか」

「その話というのは……? 人魚が居るとか見えるとか、やはり死んだ……とか書けというのですか?」

「全てそのままじゃなくてもいいんです。その浪漫を、空想を、そして心に響いた事を書いて下さい」

「僕にとってはただの日常です」

「それでも構いません。いえ、むしろその方がいいです」

「僕が困ります。それでは小説家ではなく、随筆家になってしまう」

「先生の日常は一般人にとって非日常ですよ」

 若いのにずいぶんとハッキリものを云う。

 僕はおもわずクックッと喉を鳴らしてしまった。

 タエさんもだが、こうした裏表の無い、腹芸の出来ない人物は好ましい。

 そして何よりも僕の原稿を欲してくれているのもありがたい。

「なぜ、そこまで僕にこだわってくれるんですか? 僕より若くて優秀な作家は他にもいくらでもいるでしょう――?」

「それは……」

 小柳君はふと僕から視線を外すと、金魚鉢の前に置きっぱなしにしていた書きかけの原稿に目を留め、立ち上がった。

「先生、この作品は……? 夢……海石榴つばき?」

「『海石榴』は『椿』と読みます。人魚がいない間に書いたただの散文です」

「先生、先ずはこの……この『夢海石榴ゆめつばき』を完成させて下さい」

「でも、僕はもう書けない……。それだって途中のままです」

「これは、ご自身の為にも完成させるべきです。完成させた暁には、きっと、きっと……その時に人魚は必ずや戻ってくるはずです」

「そんなことが……どうしてわかるのですか?」

「云ったでしょう。私は先生の作品を世に出す為に編集者になったんです。ただの愛読者だからじゃない──それに、どうして私がここまで先生に執着するか、おわかりになりますか?」

 小柳くんの声音に力がこもる。

「わからない。わかりません……」

「先生……。私はね、子供の頃『神隠し』に遭ったことがあるのです」

「神隠し……」

「貴方なら信じて下さると思うので云いますが……」

 小柳君の瞳にチリリと灯が燈る。熱が帯びる。

「先生のお著作に『月の底』という作品がありますよね」

「ああ。はい、デビューしたての頃の掌編です。もっとも草稿自体は中学になるかならないかの頃に書きましたが……」

「……あの話を読んだ時、私は驚愕しました」

「──というと?」

 「私の体験そのものだったのです」

「そんな!」

「もちろん先生が盗作したという話ではありません。だって私は神隠しの間の事は誰にも話しておりませんから」


 ──『月の底』という話は、ある寒村地方の少年が自分の宝物の銀のバケツ(但し、底が抜けている)と引き換えに天狗に弟子入りする話である。

 ああ、つい最近もこの話の事を思い出した様な気がする。ただの既視感かもしれないが……。

 私は記憶の糸を手繰る。

 細く綺羅としたそれを手繰っていくと、ごそり。とやはり綺羅としたモノが顕になる。



 あれは、そう──たしかこんな話であった。


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