人を書斎に通すのはいつ以来だろう。
南向きの庭に面した窓に紫檀でしつらえられた猫脚の文机。右手にも紫檀製の小さな違い棚があり、辞書や金魚鉢が置かれている。
それ以外は四方を本や原稿の束でに囲まれた簡素な部屋だ。
僕は立ち話も何だから……と、文机の前に座り、やや緊張した面持ちの小柳君に来客用の座布団を差し出した。
小柳君は居住まいを正すと、おもむろに切り出した。
「……先ほど、ご近所で伺ったのですが」
「どうせろくでもない噂でしょう」
「ろくでもないかどうかはともかく、随筆をお願いしても幻想文学になりそうなお話で大変興味深かったです」
「ああ、僕が空の金魚鉢に話しかけているとか、人魚が居るとかいうヤツかな」
「ご存じでしたか」
「何度かタエさんに話しかけている所を見られてしまいましたし、信じているか、彼女に視えているかどうかはともかく『人魚が居る』ことは話した事もあります。それに、この部屋からは、通りの声が丸聞こえなんですよ」
小柳君は失笑して
「真面目で素直そうな家政婦さんでしたものね」
「そうなんです。何でも素直に話してしまう──でも」
「はい」
「タエさんは先ほど
僕は片手の親指と中指を広げてLの字を作り、全長を示した。
「人魚が……住んでいた?」
「ええ、そうです」
「過去形ですが……?」
「妻亡き後、彼女が──人魚が創作の原動力でした。しかし、僕の原稿用紙の中に入水してしまいましてね」
「……」
「僕の文学と心中したんです。そういう訳でして、せっかくご依頼いただき、何度も足を運んで下さって申し訳ないが、僕はもう何も書けません。書く意味が無いんです──今日はそれをお伝えしたくって」
「文学を辞めると云うことですか? 辞めてどうなさるんですか? 何か他にお仕事でも?」
「昔から僕はすぐ空想の世界に入ってしまう。まともな勤め人なんか無理でしょうね」
「じゃあどうなさるおつもりですか?」
「あの娘が──人魚が僕の活字の海に飛び込んでくれたんです。応えなければ」
「後追い心中するつもりですか?」
「どうでしょう? 文学は僕の分身だから『後追い』というのが正しいかはわかりませんが……どうしたら僕も、僕の原稿用紙に飛び込めるのでしょう? あるいは家から一番近くの海へ飛び込めば、場所は違えど、いつか彼女と出逢う事はできるのでしょうか――? ここから一番近い海と云えば、神奈川県は平塚の須賀湾ですが、そこでは『海で死んだ者は、人魚になる』と云う伝承が残っているそうです。男でも人魚になれるのかな?」
「先生……」
小柳君は哀しいような、遠くを見つめるような、何か眩しいものでも直視するような複雑な表情で僕を見つめた。
「君も僕の頭がおかしくなったと思いますか?」