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第9話 言葉の海の生き物たち

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 ああ。可哀想な旦那さん。

 あんなにいつも苦しんで、悩んで、書いて、書いて、それでも生み出される物語の数々ひとつひとつ、温かくって、やさしくて。 

 ひとひらですら美しく、あたしをいつもうっとりさせる。

 それなのに、なんて寂しい。哀しい。あの人の心──。

 言葉の海はこんなにも『あの人そのもの』だった。

 旦那さんの涙で出来た海の水は当然塩辛くて、あたしもそれがとても哀しくて。

 あの人は「書くことと、想像することが全て」。

 だからその産物である此処に身を投げて、旦那さんの言葉と一つになり、いつも側に居ることがあの人にとって一番幸せで、唯一のずっと一緒に居られる方法だと思ったの。


 でも違ったみたい──。

 書かずにいられない、あの人の寂しい、哀しい心。辛い思い、ひとりぼっちの家。


 そんな孤独な心と傷ついた魂からあたしが生まれたのね。

 それなら一層あたしが、あちら側で旦那さんの側に居てあげなきゃダメだったんだわ。

 あたしが居ないと現実に心が保てなくなる程に……!!


 胸いっぱいに溢れる愛しさに、息苦しくなったあたしは、旦那さんの傍ら、元の金魚鉢が堪らなく恋しくなった。ポロポロと涙がこぼれる。とまらぬ涙は両手に受けて、それでも尚も止まることを知らない。

旦那さんが可哀想で、泣いて泣いて。

己の浅はかさに泣いて、泣いて、泣いた。

 ようやく泣き止んだ頃には、あたしの涙で海の水が増えたんじゃないかと思うくらい、泣きくずれた。

 ぐちゃぐちゃした気持ちが少しおちつくと、あたしはキッと顔をあげ、両手でパシリと顔をたたく。


 ──帰らないと。

 そうだ。帰るんだ。

 ──ビー玉を持って、すっかり元どおりの生活に戻るんだわ。

 ゆらりと起きあがる。

 ──そうでなければ、このままでは旦那さんはきっと、また壊れてしまう。 

 そう考えるとゾッとした。

 また再び涙か溢れそうになるのを、グッと喰いしばる。唇に血が滲む。

 生まれた時から旦那さんに守られていたあたし。弱々しいあたし。

 思い込んで、突っ走って、かえって旦那さんに寂しい思いをさせてしまった。莫迦なあたし。駄目な自分を抱き締める。

 ──大丈夫。きっとすぐ元にもどるわ。何もかも。


 奮い立たせる。


 あたしの心とは裏腹に、言葉の海の生き物たちは楽しそうだった。

 ヒトデが星の真似をしている。

 珊瑚が胞子で絵を描いている。

 海藻がゆらゆらリズムをとりながら歌ってる。

 そばを通り過ぎるムカデクジラと海兎の百米走は見てみたかったけれども、あたしは落としたビー玉を探し出すために先に進む事にした。



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