最愛の妻も亡くなり、あわただしく過ぎる日々のなか、いつの間にか、残っていたもう一匹の金魚もまた消えていた。
次々とこの家を見舞う不幸の中、世話がおろそかになり死んでしまったものを、その当時の家政婦が片づけたのか、野良猫がどさくさに紛れて家の中に入り込み、何処かへ咥えて行ったのはわからない。
身から出たサビと云えばそれまでだが、その頃から僕の言動の奇妙さが近隣で噂にのぼり始めた。
もともと食の細い方だったが、肋が浮き出るほどに痩せた。頬もこけた。
そうだ。この頃の僕のあだ名は「死神」であった。
心配した誰かが何かを僕に語りかけてくれるが、ザアザアと周波数の合わないラヂオのようで先方が何を言っているのかがわからない。聴き取れない。言葉が意味として繋がらない。
思考がブツブツと途切れ、断片的にしか物事を考えられない。
頭の中が、ザアザア。ガアガア。ピーピー。
砂嵐の様に過ぎる日々。
幼い子に優しく話しかけてきた男は医者だったかもしれない。
僕自身も壊れたラジオの様にしか他人に接する事が出来なかったと思うので、果たして治療が上手くいったのかはわからない。
長く努めてくれていた家政婦が辞めた。
家族は次々と消え、僕は広い家に一人になった。
空の金魚鉢だけが残った――。
この中に金魚が居るとき僕は幸せだった。
大事な金魚鉢だ。
空ではいけない。
幸せになりたい。
いや、安心が欲しい。
簡単には消えない安心を。
でないと僕は壊れてしまう。
埃を被った金魚鉢を丁寧に洗う。
金魚屋で石や水草を買ってくる。
可愛らしい箱に入った餌も買ってくる。
満たされた生活を作らなくてはならない。
井戸の水で鉢を満たしたら、何だか頭も久しぶりに幸福感に満たされた気がした。
頭の中だけで無く、この鉢の中も空想で満たすのだ。
そう心に決めた時、お前が現れた。
壊れたラジオの音はやみ、お前の澄んだ声や言葉が聴こえ始めた。
震える手で物語を書き始める。
お前は僕の原稿を読み、時には誦じ、喜び、泣き、笑ってくれた。
そして何より妻と同じく「旦那さん」と呼んでくれた。
気配が動く。香りが動く。
人としてだいぶ機能しはじめる。
漸く家の事を何とかせねばなるまいと思うようになり、親戚中に手紙を書き、家政婦に来て貰えるよう打診する。
タエさんが来た。
家が家として機能し始める。
三度の飯で身体に肉がつき、人並みとまでは言わないが、「死神」とは云われなくなる。
僕が僕として人の形を成している。
ああ。普通に暮らせはじめている。
なんと幸せな事だろう。
人魚よ。
人がなんと云おうとどうでもいい。
お前は、僕の──「幸せ」そのものなのだ。
戻ってきてくれる可能性があるのもお前だけだ。あとはみんな逝ってしまった。
どうか僕を独りにしないでおくれ。
その為に僕が出来ることは──。