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第7話 金魚鉢

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 大事な金魚鉢だ。

 昔から硝子や水晶、鏡に万華鏡。ルーペに眼鏡、顕微鏡に鏡など光を透かしたり反射したりする綺羅綺羅きらきらしたものが好きだった。

 ありのままの現実を切り取ってくれるモノ。

 光や景色を何倍にも輝かせてくれるモノ。

 或いは異なった一面を見せてくれるモノ。

 僕の大事な宝物たち。

「男のくせに」と近所の子にからかわれた事もあるが、好きなものは好きだ。

 光や景色、家の中を舞う埃さえも硝子を通じて見ると美しく変化する。

 それは僕の想像力をたまらなくかき立てた。

 父母に金魚屋に連れて行かれた時も金魚よりも金魚鉢の方に魅了された。

 丸く湾曲した硝子は実に美しく、プリズムとはまた違った僕の偏執した所に刺さり、何とも魅力的に感じた。

「買ってくれ」と駄々をこねたのも金魚鉢が初めてだと思う。

 父は笑って、買ってやるのは構わないが、金魚鉢が空ではおかしいだろう。と美しい尾ひれがひらひらした赤い琉金も二匹買ってくれた。

 父、母、僕、そして金魚――。

 そう、この中に金魚が居るときは僕も、僕の家も幸せだった。


 僕が高等学校に上がる頃、母が病に倒れた。

 医者だった父は懸命に治そうとした――。

 しかし、当時の医学では治せない病だった。

 どこにどう尾ひれがついたのか、父が母を殺したのだという噂が立った──。

 母が亡くなって一番悲しんだのは誰が何と云おうと父だったのに──。

 あれほど町内外で人望があり、繁盛していた父の病院は悪い噂に絡め取られるように少しずつ傾きはじめた。


 僕の家には父と僕。

 母はもういない。

 そして金魚もいつのまにか亡くなっていた。

 静かな家。空の金魚鉢──。

 その空虚な金魚鉢が自分の心の中を、色褪せた空想しか生み出せなくなった頭の中を見ているようで嫌だった。

 いつしか僕は本を読みあさり、脳の中をいっぱいに満たした。

 溢れるほどに満ち満ちた想像力を使って、物書きの真似事をするようにもなった。

 やがて僕は大人になり、現実も頭の中も幸せな空想で満たしてくれる女性と出会い、結婚をした。

 妻は僕のことを「あなた」でも「光太郎こうたろうさん」でもなく「旦那さん」と呼ぶ。

 芸者っぽいからやめなさい。と父は云っていたが、僕はこの呼ばれ方が好きだった。

 その頃には、物書きは真似事ではなく、本業となっていた。

 父、僕、妻、そして金魚が二匹――。

 毎日が幸せだった。

 家にささやかな笑い声が戻ってきた。

 やはり家も金魚鉢も満たされている方がいい。

 中身のある方がいい。

 このままがいい。

 それなのに。


 やがて父が肺病で亡くなった。

 金魚が一匹死んだ。

 中身が減ってしまった。

 これではいけない。

 これではいけない。それなのに。


 しばらくして、妻も父と同じ病で倒れ、金魚のような赤い血をたくさん吐いた。

 喉から、口から、コポコポと赤い血が溢れる。


 白い寝具が赤々と染まった。

 僕は雪に落ちる椿の花の絨毯を思い出した。



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