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第6話 活字の群れ

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 ──原稿用紙。

 あたしは其処へと身を投じた。

 旦那さんの驚いた顔が机上から覗いている。

 何かを叫んでいる。

 あの人の現実と夢の間で膨れ上がった広大な言葉の海。

 ここは金魚鉢の水と違って随分と塩辛い。

 あたしが四角く切り取られた海面を仰ぎながらゆっくり落ちていくので、二人の距離が大分遠くなるまでずっと笑っていなければならなかった。

 ──心配しないで。

 あたしは自分に云い聞かせるようにつぶやいた。

 大小連なった泡の粒が、風に揺れるレースのカーテンみたいにひらひら昇り、あたしの軌跡を残こす。ポツポツポツと気泡が可愛らしい音を奏でる。雨の日の窓みたい。

 暫く落ちるがまま、流されるまま、海に身を預けていたら、潮に乗って何かが流れてきた。

 ひらひらした銀色のリボンのようなリュウグウのツカイ。

 それに紛れてやってきたのは……。

 ──活字の群れだ。

 コポコポ。コポコポ……。

 空気の弾ける音がする。

 旦那さんが珈琲を淹れる時の音に似ている。

 珈琲にはこだわりがあるらしくて、それだけは自分で淹れている。

 温かい湯気みたいな言葉たち。濃い藍色のインク。それらは何度も見てきた旦那さんの美しく優しい物語の化身……。


 ──金色の稲穂。白銀の狼たち。薔薇の香り。鈴蘭の笑顔。満天星。虹色の紫陽花。


 最近はお仕事のお話づくりはすっかり手が止まっていたけれど、児童向けの童話なんかは今でもよく、読み聞かせてくれていた。

 その時の旦那さんの眼差しも声もとても柔らかく、優しい。


 活字たちは旦那さんがいつもしてくれるように、あたしの鱗を撫で、あたしの身体を撫で、あたしの耳朶を擽る。

 ──ふふっ。くすぐったい。

 ぽかぽかと温かな気持ちになる。

 いつも旦那さんが物語を読み聞かせてくれる時みたい。

 そうやって活字たちが優しく丁寧に尾鰭の重りを紐解くので、あたしの尾鰭に絡まった花嫁衣装……ビー玉はすっかりはだけ、ゆらゆらと光を揺らめかせながら黒い海の底へ深く深く沈んでいった。

 ビー玉が落ちたと覚しき場所から砂煙が立ち上った。

 衝撃で深海からも活字が浮き上がってくる。

 その浮力に煽られて私の身体もぐんぐん浮き上がる。

 浮遊感が心地よい。

 乗った事ないけれど、物語に出てくる『ふらここ』もこんな感じなのかな? 


 ──わぁ!


 深海の泥中に潜んでいた活字たちは、未だあたし達が出逢う前の『あの人の物語』の群れだった。

 知らない筈なのに懐かしい物語。

 懐かしい景色。

 だけれども、どこかヒヤリとして鼻腔がスンとする。

 涙腺がゆるむ。

 あたしは巻物を解くように、しゅるしゅると活字の群れを読み解いていく。

 海の底に仕舞われていた物語。

 ようやく落とし所を見つけて、沈んでいた記憶。それを再び日の光に当てるのはよくない気がしたけれども、私の手は止まらない。

 解かれた活字によってかき混ぜられた気泡の粒が海底にレースのような影を落とす。

 木漏れ日のようにチラホラとしたそれは、いつも文机の傍らから見る庭の景色を思い出させ、私は早くも懐かしくなった──。




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