──さて。
「あら、タエさん。こんにちは。お仕事は慣れた?」
「はい。お陰様で」
「いつも足早に通り過ぎちゃうけれど、ちゃんと休憩もらえてる?」
──相変らず、書斎からは通りの声がよく聞こえる。
「はい。先生はとてもお優しい方ですので、安心してお勤めさせていただいておりますし、休憩も里帰りもキチンと頂戴しております」
「そう、それはよかったわねぇ。私たち、心配していたのよ」
「そうそう」
「心配ですか?」
「東雲先生、なんだかご病気のようだし」
「いつもふらふらして、何かブツブツ独り言を云っているし」
「ご病気ですか? 先生は細身で陰気でいらっしゃいますけれどお身体の方は少なくとも今はご健康です。独り言は原稿の内容を
──細身で陰気。でも優しい。なるほどタエさんは僕の事をそう思っていたのか。
「そうじゃなくてね、気持ちというか、脳の方が……」
「ふふっ。アンタ、そんなこと直接云うもんじゃないよ」
「いや、だって心配じゃないか。あはは」
「脳……? ああ、頭の事ですか。はい。先生はとても頭がよくていらっしゃいます」
「そ、そう、まぁ。いつでも話聴くからね」
「本当に。色々な噂のある先生だから気をつけてね」
「ふふふ。ではまたね」
「えっ? 噂ってどんな噂ですか?」
「いえね。私たちもよく知らないから……また今度ね」
「はぁ……? 失礼致します」
なんと厚かましい。
「噂を広めているのは他ならぬ貴女たちでしょう」と乗り込んでやろうかとも思ったが、今度は「原稿も書かずに盗み聞きをしている」といわれかねないのでやめた。
「脳の方」……か。
まぁ、いい。
外の騒ぎが落ち着いて、家にタエさんも誰も居ないときは安心して人魚に話しかけることができる。
そういえば狐狸妖怪が視えるというタエさんには
「僕は脳が病気らしいよ。おかしいね。お前は確かに此処に居るのに――」
──旦那さん……。
僕は面差しが亡き妻によく似た人魚に話しかける。
「目の前にいるお前が本当にただの僕の空想の産物で、幻なのだとしたら、僕の想像力が無くなった時……小説が書けなくなった時、消えてしまうのだろうかね?」
彼女は困り顔でそれに答える。
──そんな事になりはしないわ。あたし、身体の命に終わりがきても、旦那さんとずっと一緒に居られる方法、考えたもの。
「身体の命の終わりって、お前、どこか悪いのかい?」
──そうじゃない。そうじゃないのよ。身体の命の他に心の命もあるでしょう?
「魂のことを云っているのかい?」
──あたしたち二人がずっと一緒で幸せに居られる方法を考えたの。だから大丈夫。大丈夫だから。
そう云っていたのに、お前は──お前までもが……。