文机に向かって終日原稿を書いていた。
あの日から毎日書いている。書き続けている。
しかし一向に書き上がる気配がしない。
はて? あの日とは一体いつの事であっただろうか?
記憶が
疲れているのかもしれない。
ぐっ。と目頭をつまみ、がしがしと乱暴に上下する。
そろそろ休もうかと思った所に、傍らの金魚鉢から彼女が笑いかけて来た。
──うふふ。
手のひらに収まるほどの、小さな小さな彼女。
上半身はひな人形のように整った面立ちの女人だ。
しかしながら、下半身は赤地を基調としながらもその上は鮎のような虹色の鱗に包まれている。
人魚である。
パシャリ。
彼女の尾鰭が水面を打った。
微かな動きでも花のような甘い香りが運ばれてくる。
この花の香りは何であったろうか。
──旦那さん。旦那さん。
「なんだい?」
──お水。こんなに濁ってしまっては、旦那さんのお話が読めないわ。
「そうかい。それじゃあ水をかえてあげよう」
いつも一番に原稿を読んでくれる、彼女はかけがえのない僕の読者だ。
──ううん。いいの。それより其処のガラス玉を頂戴。
パシャリ。
香りが動く。
ああ。この香りは蝋梅だ。
僕はついと、窓の外の庭木に目をやる。
春が近いのかもしれない。
彼女は僕がとって置いたラムネのビー玉を両手で恭しく受け取り、嬉しそうに微笑んだ。
指先が少し濡れた。ああ。生きている。
──綺麗ね。
「君は硝子玉が好きだね」
──だってあたしの育ったお城もこの通り、まるっと硝子で出来ているもの。そりゃあ大好きよ。
「硝子のお城か。いいね。いい響きだ。今度、何かの作品で使えそうだな」
──あら。嬉しい。私の案を使ってくれるの?
人魚は本当に嬉しそうにニコリと微笑みかけてくれる。
「ああ。もし、この屋敷も全部硝子で出来ていたら愉快だろうね」
一転、つまらなそうに肩をすくめる。
──このお屋敷は駄目よ。
「どうしてだい?」
──だって暑くなった時に日陰に移動したくても、出来なくなっちゃうでしょう。このお屋敷はこのままでなくちゃ。
「そうか。じゃあこのままにしておくとするよ」
──ふふ。そんな事より見て頂戴。
「さっきからちゃんと見ているよ」
──あたし。こうして尾ひれに綺麗なおもりをつけてね。
「うん」
──旦那さんの言葉の海に飛び込みたかったの。
「なんだって?」
──花嫁衣裳よ。
彼女はそう云うと、刺繍糸で手際よく自身の尾ひれにガラス玉を結い上げる。
そして勢いよく跳ね上がり、僕の書きかけの原稿用紙の束へトプン。と身を投じた。
あっと云う間の出来事だった。
花の香りだけが残った。