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第10話 責任

 マンションに到着し、彼は来客用パーキングに車を停める。


「お疲れ様。楽しかったよ」


 シートベルトを外しながら呟く彼。

 私も同じ気持ちだった。もう少し彼と一緒にいて……もっと話し込んでみたかった。


(マナトさんが女性ならこの先があったかもしれないけれど……)


 残念ながら私は男の人に免疫がなく、どう親睦を深めればいいのかわからない。

 だから彼ともここでさよならだろう。

 しかし……。


「名残惜しいな」


 なぜかマナトさんもそんな事を言う。


「勘違いしてそうだから言っとくけど、俺、誰にでも親切にするわけじゃないよ。君が特別」


 至近距離にある唇にドキドキしながら私は答えた。


「イガさんを助けたから……ですよね」

「そ。君の優しさに惚れたんだ」


 どきん、と心臓が大きく跳ねる。

 特別な意味はない、とわかっていても、惚れたなんてワードは、恋愛経験0女には刺激が強すぎる。


 と、マナトさんは私の髪の毛をはらい、まじまじと見つめてきた。


「さっきさ、俺の目が節穴だって言ったよね」

「……ごめんなさい。失礼でしたね」

「いいや。その通りだ」

「マナトさん?」

「君は役に立つ道具なんかじゃない。地上に降りてきた美しい天使だ。跪いて一緒にいてくれと乞うべきだった」

「え……?」

「どうしよう。信じられないくらいに君が可愛い」


 どきん、と心臓が大きく跳ねる。

 ふわり、と抱きしめられ、ハッとした。


「あの、マナトさん……」

「もう少しだけこうさせて……」

「……」


 頭頂部に彼の顎が当たり、その声が鼓膜へダイレクトに響く。

 彼が少し体を離し、真っ直ぐに私を見つめた。

 彼の視線が全く逸れない。


 心臓がドキドキと早鐘を打つ。

 さっきは感じられなかった、不思議な感情が、私の心を切なく締め付けてくる。

 じっと見つめた後、マナトさんはふっ、と微笑んだ。


「そうか。アプローチを間違えたなら、仕切り直せばいいのか」

「……」

「運命を作っていくのは、自分だからな」


 一体何を言ってるの……?


 私はギュッと目を閉じて……彼から繰り出される一手を待つ。

 が、何も起きず、カチャリという金属音が聞こえてきた。

 目を開けると、シートベルトが外されていた。


「どうぞ」


 助手席ドアが開けられて、外に涼しい顔のマナトさんがいる。


(私ったら……過剰反応!?!)


 顔が一気に赤くなった。


◇ ◇ ◇


 翌朝、マナトさんにもらったスーツを見て、明子は両目を丸くした。

 ブルーのツイード素材でブランドは……。


「ショネルじゃない!」

「だよね……」


 おしゃれに縁遠い私でも、流石に知っている名前だった。


「えびで鯛を釣るとはこのことね。古いものだけど全然今でも素敵だわ。誰のなんだろ」

「お母さんのかな。マナトさんが子供の頃に亡くなったっていう……」

「形見をくれるなんてよっぽどあんたが気に入ったのねえ。それなのに」


 明子が両手を組み私を睨む。


「次の約束一つしないとは。どう言う事?!」


 私の顔は自分でもはっきりわかるほど赤くなった。


「約束なんて……なんのために」

「二人の関係を一歩進めるためでしょうが!」


 明子は呆れた。


「関係を進める……ううっ」

「想像しただけで緊張しないの! この恋愛経験0女は……惚れたとまで言わせたくせに!」

「それは人間愛で、女性としての惚れたではなくて」

「人間愛上等! そこから恋に発展させればいいのよ!」

「無理無理無理。そんな勇気ないよ……そもそも、私もそういうんじゃないし」

「朝から溜め息ばっかりついてるのに?」

「そりゃ、素敵な人だったから……」


 私はうなだれる。


 頭の中には彼と交わした沢山の会話が巡っていた。


「ほら、もう顔が赤くなってる。あんた、考えてる事、バレバレよ」

「嘘っ」


 私は頬を両手で挟み込み、「熱い……」その変化にめまいを覚えた。


「恋じゃないなんてガキっぽい理由であっさり彼を振ったあんたが、今は彼の名前を聞いただけで赤くなってる。状況が変わった理由を考えてみたら?」


 恋愛マスターの追求は容赦ない。


「せっかくの出会いを生かしなさい。名刺の番号にかけりゃいいじゃん」


 そう言われた瞬間、すっ、と興奮が冷める。


「……その話は終わったの」

「どう言う事?」

「前職の事で私を助けてくれようとして……でも私、断ったから」


 重い沈黙が部屋にたちこめ、先に明子が言葉を発する。


「……どうして甘えなかったの? あれはどう考えても理不尽でしょう。あんたがどれほど会社に貢献してきたか……それなのに、噂ごときで首だなんて」


 ちくん、と胸の奥が鋭く痛む。


「そうねえ。ちょっと辛かったかな。でも、追い出された場所に無理矢理戻っても……幸せにはなれないよ」

「賠償請求とかできるんじゃない?」

「ああ、そういう手もあったんだね……」

「そしたら当面生活の不安はなくなるわ。あんたを陥れた奴や、手のひらを返したやつらに、復讐もできるのよ。ざまあみろって言ってやりたくない!?」

「……うーん」

「私ならボコボコにしてやるんだけど……」

「うん」

「気がすすまないって顔ね」

「ごめんね。私の代わりに怒ってくれてるのに」

「あんたは優しいのよ。だから自分が多少我慢して事が丸く収まるなら、それでいいと思ってる。その生き方を否定する人もいるとは思うけど、私は肯定するわ」

「ありがとう」


 私は心からそう伝える。

 短大時代に彼女と知り合い、七年間の付き合いだ。

 ずっと仲良くしてくれて波のある私の心身を支えてくれている。

 アパートを追い出された時も、明子が「うち来る?」と言ってくれたおかげで路頭に迷わずに済んだ。

 まさしく女神。好きだ。


 ショネルのスーツはワードローブの仲間入りをしたけれど、着ていく機会もなく一ヶ月ほどが経ち。

 日常が戻ってきた。


 2週間ほど前から私はコンビニでバイトをしている。

 職安に通い、正社員を募集している会社に何件かエントリーをしてみたが全部書類選考で落とされてしまったのだ。


「ううう。売り手市場のはずなのに、なんでだろう」


 嘆く私に明子はこんなことを言っていた。


「面接もしてもらえないなんて確かに変ねえ。誰かが手を回したりしていて」

「誰か、って」

「前職の人事が、とか」

「そ、そんな」

「だとしても、教えてくれるはずだよね。みかりに問題があるなら改善を求められるはずだろうし」


 その通りだ。ついつい、誰かの関与を疑ってしまうなんて、被害妄想にもほどがある。

 まあ、人生には幾度か、停滞期があると聞いている。

 それが恐らく今なのだろう。


 それなりに忙しい日々の中、マナトさんとの記憶も遠ざかっていく。

 私には、特別な出会いだったけど……。


 彼はもう私の存在など、きっと忘れているだろうな。


 そんな事を思っていたある日曜日のこと。


 意外な人から連絡があった。


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