マンションに到着し、彼は来客用パーキングに車を停める。
「お疲れ様。楽しかったよ」
シートベルトを外しながら呟く彼。
私も同じ気持ちだった。もう少し彼と一緒にいて……もっと話し込んでみたかった。
(マナトさんが女性ならこの先があったかもしれないけれど……)
残念ながら私は男の人に免疫がなく、どう親睦を深めればいいのかわからない。
だから彼ともここでさよならだろう。
しかし……。
「名残惜しいな」
なぜかマナトさんもそんな事を言う。
「勘違いしてそうだから言っとくけど、俺、誰にでも親切にするわけじゃないよ。君が特別」
至近距離にある唇にドキドキしながら私は答えた。
「イガさんを助けたから……ですよね」
「そ。君の優しさに惚れたんだ」
どきん、と心臓が大きく跳ねる。
特別な意味はない、とわかっていても、惚れたなんてワードは、恋愛経験0女には刺激が強すぎる。
と、マナトさんは私の髪の毛をはらい、まじまじと見つめてきた。
「さっきさ、俺の目が節穴だって言ったよね」
「……ごめんなさい。失礼でしたね」
「いいや。その通りだ」
「マナトさん?」
「君は役に立つ道具なんかじゃない。地上に降りてきた美しい天使だ。跪いて一緒にいてくれと乞うべきだった」
「え……?」
「どうしよう。信じられないくらいに君が可愛い」
どきん、と心臓が大きく跳ねる。
ふわり、と抱きしめられ、ハッとした。
「あの、マナトさん……」
「もう少しだけこうさせて……」
「……」
頭頂部に彼の顎が当たり、その声が鼓膜へダイレクトに響く。
彼が少し体を離し、真っ直ぐに私を見つめた。
彼の視線が全く逸れない。
心臓がドキドキと早鐘を打つ。
さっきは感じられなかった、不思議な感情が、私の心を切なく締め付けてくる。
じっと見つめた後、マナトさんはふっ、と微笑んだ。
「そうか。アプローチを間違えたなら、仕切り直せばいいのか」
「……」
「運命を作っていくのは、自分だからな」
一体何を言ってるの……?
私はギュッと目を閉じて……彼から繰り出される一手を待つ。
が、何も起きず、カチャリという金属音が聞こえてきた。
目を開けると、シートベルトが外されていた。
「どうぞ」
助手席ドアが開けられて、外に涼しい顔のマナトさんがいる。
(私ったら……過剰反応!?!)
顔が一気に赤くなった。
◇ ◇ ◇
翌朝、マナトさんにもらったスーツを見て、明子は両目を丸くした。
ブルーのツイード素材でブランドは……。
「ショネルじゃない!」
「だよね……」
おしゃれに縁遠い私でも、流石に知っている名前だった。
「えびで鯛を釣るとはこのことね。古いものだけど全然今でも素敵だわ。誰のなんだろ」
「お母さんのかな。マナトさんが子供の頃に亡くなったっていう……」
「形見をくれるなんてよっぽどあんたが気に入ったのねえ。それなのに」
明子が両手を組み私を睨む。
「次の約束一つしないとは。どう言う事?!」
私の顔は自分でもはっきりわかるほど赤くなった。
「約束なんて……なんのために」
「二人の関係を一歩進めるためでしょうが!」
明子は呆れた。
「関係を進める……ううっ」
「想像しただけで緊張しないの! この恋愛経験0女は……惚れたとまで言わせたくせに!」
「それは人間愛で、女性としての惚れたではなくて」
「人間愛上等! そこから恋に発展させればいいのよ!」
「無理無理無理。そんな勇気ないよ……そもそも、私もそういうんじゃないし」
「朝から溜め息ばっかりついてるのに?」
「そりゃ、素敵な人だったから……」
私はうなだれる。
頭の中には彼と交わした沢山の会話が巡っていた。
「ほら、もう顔が赤くなってる。あんた、考えてる事、バレバレよ」
「嘘っ」
私は頬を両手で挟み込み、「熱い……」その変化にめまいを覚えた。
「恋じゃないなんてガキっぽい理由であっさり彼を振ったあんたが、今は彼の名前を聞いただけで赤くなってる。状況が変わった理由を考えてみたら?」
恋愛マスターの追求は容赦ない。
「せっかくの出会いを生かしなさい。名刺の番号にかけりゃいいじゃん」
そう言われた瞬間、すっ、と興奮が冷める。
「……その話は終わったの」
「どう言う事?」
「前職の事で私を助けてくれようとして……でも私、断ったから」
重い沈黙が部屋にたちこめ、先に明子が言葉を発する。
「……どうして甘えなかったの? あれはどう考えても理不尽でしょう。あんたがどれほど会社に貢献してきたか……それなのに、噂ごときで首だなんて」
ちくん、と胸の奥が鋭く痛む。
「そうねえ。ちょっと辛かったかな。でも、追い出された場所に無理矢理戻っても……幸せにはなれないよ」
「賠償請求とかできるんじゃない?」
「ああ、そういう手もあったんだね……」
「そしたら当面生活の不安はなくなるわ。あんたを陥れた奴や、手のひらを返したやつらに、復讐もできるのよ。ざまあみろって言ってやりたくない!?」
「……うーん」
「私ならボコボコにしてやるんだけど……」
「うん」
「気がすすまないって顔ね」
「ごめんね。私の代わりに怒ってくれてるのに」
「あんたは優しいのよ。だから自分が多少我慢して事が丸く収まるなら、それでいいと思ってる。その生き方を否定する人もいるとは思うけど、私は肯定するわ」
「ありがとう」
私は心からそう伝える。
短大時代に彼女と知り合い、七年間の付き合いだ。
ずっと仲良くしてくれて波のある私の心身を支えてくれている。
アパートを追い出された時も、明子が「うち来る?」と言ってくれたおかげで路頭に迷わずに済んだ。
まさしく女神。好きだ。
ショネルのスーツはワードローブの仲間入りをしたけれど、着ていく機会もなく一ヶ月ほどが経ち。
日常が戻ってきた。
2週間ほど前から私はコンビニでバイトをしている。
職安に通い、正社員を募集している会社に何件かエントリーをしてみたが全部書類選考で落とされてしまったのだ。
「ううう。売り手市場のはずなのに、なんでだろう」
嘆く私に明子はこんなことを言っていた。
「面接もしてもらえないなんて確かに変ねえ。誰かが手を回したりしていて」
「誰か、って」
「前職の人事が、とか」
「そ、そんな」
「だとしても、教えてくれるはずだよね。みかりに問題があるなら改善を求められるはずだろうし」
その通りだ。ついつい、誰かの関与を疑ってしまうなんて、被害妄想にもほどがある。
まあ、人生には幾度か、停滞期があると聞いている。
それが恐らく今なのだろう。
それなりに忙しい日々の中、マナトさんとの記憶も遠ざかっていく。
私には、特別な出会いだったけど……。
彼はもう私の存在など、きっと忘れているだろうな。
そんな事を思っていたある日曜日のこと。
意外な人から連絡があった。