「えっ……いつの間に!」
「ああ、さっきからずっとだよ」
「ええええ??? じゃあ今の会話は……」
「聞いてないね」
「……そうなんだ」
私はちょっとだけホッとしていた。
イガさんそっちのけで話に夢中になっていたから、振り返ると恥ずかしい。
ポカンと天井に向けて口を開けているイガさんを見て、マナトさんは苦笑した。
「こんな無防備な顔、初めて見たなあ」
(優しい顔だなあ)
イガさんに悪魔と言われてるのに……。
父親のほうが息子の掌で遊ばれてる気がして、微笑ましいなと内心思う。
マナトさんは立ち上がると、イガさんの傍へ回り込んだ。
「さ、父さん、起きて」
「おおお」
呼ばれたイガさんが体勢を立て直した一瞬……。
「ゲホゲホっ」
前のめりに激しく咳き込んだ。
(この感じ……もしかして!)
その苦しげな表情に、危険信号がピピピと点滅する。
イガさんは、突然、ぐ、っとえずいた。
「やっぱり! イガさん大丈夫?!」
私は彼の口に両手を合わせて差し出した。
ドボドボとリバースされるイガさんの体液やら諸々。
イガさんの顔は真っ赤である。そこまで酔っていたとは……気がつかなかった。
戻したものは私の手のひらにとどまっており、なんとかセーフ……でもまだ油断はできない。
「うおっと……わ……君……」
慌て声のマナトさんの前で、手から漏れるそれを、氷の入ったボウルに移す。
「すみません、マナトさん、手伝ってください!」
私はボウルを手に立ち上がる。
父と兄の二日酔いを見ていたから、対処の仕方はわかっていた。
「あ、ああ」
マナトさんは戸惑った様子だったが、しっかりとイガさんを支え、私の歩幅に合わせ歩き出してくれた。
◇◇◇
おしぼりとボウルを彼の口にあてがい、一緒に動く。
男性用トイレに私も入り込むと手を洗い「失礼します」と便器の横のイガさんに跪いた。
背中を撫でながら、リバースに付き合う。気を使ってか、誰も入ってこない。
盛大に吐くイガさんの背中を何度も撫でる。その動作を幾度か繰り返し、イガさんはぐったりと脱力した。
「全部出た気がする……もう大丈夫かな」
そう言ってマナトさんを振り返る。
と、真剣そのものな視線と目があった。
「あ、もう平気ですよ。吐くとかなり楽になるみたい。まあ、私はお酒に強いから体感ではわからないんですけどね」
「……」
マナトさんは無言だ。
二人がかりでイガさんを立ち上がらせ、マナトさんが支えた。
まだ眠っているけれど、イガさんの表情は穏やかだった。
「……良かった……飲ませすぎちゃってごめんなさい」
やり遂げた感満々で私はマナトさんに笑顔を向けた。
ところが……。
「謝っちゃダメだよ。なんで謝るの……俺には理解できない。どうしてそんな動き方になるんだ」
マナトさんは勢い込んで私に言った。
「え?」
「ここはさ、いくらでも恩を着せられるターンだよ? それなのに自分の星を減らしてどうすんの? 飲ませすぎって、わざわざ落ち度を申請する意味がわからない」
「星……?」
「助けてあげた、っていうのは、コミュニケーションにおいて、最高のアドバンテージだ。頭のいい奴なら、即交渉に移ってる。相手は俺たちだしね」
「そ、そうでしょうか」
「そうなんだって!!」
マナトさんは真剣そのもので……でも、何を伝えたいのか私にはよくわからない。
「それなのにさ……ケロっとして……まるで何もしてないみたいな素振りして……君はあまりにも無欲すぎる。いくらだっていい思いができるのに、そんなだから、搾取されるんだ。兄貴にも、借金取りにも、会社にも。他人のせいで首になるなんて、バカだよ」
会社の事を言われると、ずきんと胸が鋭く痛む。
シュルシュルと気持ちが萎んでいく。
「……そうですね……すみません」
しょんぼりと肩を落とす私。よくわからないけれど、彼の怒りを肌で感じ辛くなっていた。
(今日はハプニングが多すぎて、ダメなところばかり見せちゃったな……)
とっさの時ほど本質が出る。これは朋子の口癖だ。だから結局そういう事なんだろう。
私は時折人をイラつかせてしまう性格なのだ。
人付き合いが苦手なわけではないのだけれど……。
「とりあえず出よう」
何か言いたげなマナトさんと一緒に廊下へ。
イガさんを抱えたまま、マナトさんはくるりと私に向き直る。
「ありがとう。そしてごめん。さっきさ、俺、君にひどい事した」
「ひどいこと?」
「ナチュラルに道具扱いだっただろ? 外付けパーツに当たりくじ……傲慢にも程がある」
私は首を傾げた。
「ど、どうしたんですか? マナトさん、私は別に……」
「俺は間違ってた……君は……俺なんかに検品されるような人じゃない」
「あの、本当に、私、何かしましたか?」
半分泣きそうになった私に言う。
「したよ……俺の心に思いっきり爪痕を残した」
「え……」
「無自覚攻撃をくらって、今、頭の中がくらくらしてる」
マナトさんはパンツのポケットから片手で名刺入れを取り出すと、一枚取るように私に言った。
書かれている文字をざっと読む。
「五十嵐商事アパレル部門営業主任……マナトさん、五十嵐商事の社員なんですね」
「困ったことあったらその番号に連絡して。父を助けてくれた恩は必ず返すから」
「そんな……本当に大袈裟ですよ……人として当たり前の事をしただけなのに」
「君はさ、明らかに父を助けたんだよ。他人が与えた星を返却しちゃダメだ。そこが美点なんだろうけど」
「わかりました。ありがとうございます」
「…………俺は君を見くびってた。躊躇なく人のゲロを受け止める人なんて、どこにもいない」
マナトさんはふっと自嘲気味に笑った。
「そして二度と巡りあえないだろうね」