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第24話   終章 二人の婿

 静馬はめでたく蟻通家に戻ることができ、利之進も再び田安家の用人として出仕する日々となった。




 数日経ったある日の午後、例によって右近が酒と馳走持参で蟻通道場にやってきた。


 今日は非番という利之進も訪ねてきて、稽古の後はにぎやかな酒盛りとなった。


「資金が十分な者でなければできぬ企てじゃ。こたびの黒幕はいったい何者かの。相良源八なる者の素性も知れぬままじゃしな」


 墨伝は茶碗の酒を口にしながら、いつもの年寄り臭い口調で言った。


「身分のあるお方が糸を引いていたとすれば、いかに解決すべきか、先途はほど遠いでしょうね」


 公儀の隠密が陰謀阻止に動いていたとしても、必ずしも将軍である家斉が関与していないとは言い切れなかった。


 玄蕃は家斉が疑われぬための捨て駒にされたかもしれなかった。



 この場の皆が酒を呑んでいた。


 利之進は品良く盃で吞んでいるが、墨伝と右近、そしてお熊までが茶碗酒だった。

 静馬も形ばかり盃を手にしていた。


「敵がどなたであれ、匡時さまをお守りするのみだ」


 利之進はお熊に目を向けながら恰好をつけた。


「及ばずながらお手伝いさせていただきます」


 ほろ酔いで頬を染めたお熊が小さくこくんと頷いた。


「これこれ、お熊、何を申しておるのじゃ」


 墨伝がお熊に酔眼を向けた。


(墨伝先生は、お熊どのが利根川での〝合戦〟に加わったとお聞きになれば卒倒されるに違いない)


 酔いが回るにつれて誰かが真相を明かしてしまわぬかと落ち着かなかった。


(ともあれ、いまさら墨伝先生に知れたとしても過ぎたことだからな。まあよいか)


 今宵ばかりは勝利の美酒に酔いたかった。


 盃に口をつけてぐいと飲み干した。


 下戸なのですぐさま頬がかっと熱くなって、身体全体が弛緩してきた。


「切り放ちで静馬が戻ってきた折は、さすがのわしも平常心ではおれなかったの」


 墨伝は思いのほか、しんみりとした口調で語った。


「気楽なふうを装っておられただけだったのですね」


 静馬の笑顔に、墨伝はにっと、年相応に若々しい笑顔を返した。


「大事な〝婿どの〟ゆえ、いかに沈着な墨伝先生とて動揺されよう」


 右近がうかと口を滑らせた。


「静馬どのが婿どのですと? 墨伝どのにはお隈どののほかに娘御がおられたのか」


 怪訝な顔つきで問い返した利之進に、


「墨伝先生は早くに妻女を亡くされたゆえ、お子はお熊どのしかおられませぬ」


 右近が紅い顔を突き出した。




 万事休すだった。



「どういうことだ。静馬どの」


 まだ事態がよく飲み込めていない利之進は、信頼の色を失わぬ目で静馬を見つめた。


「やや、利之進どのは御存知なかったか。静馬とお熊どのは夫婦ですぞ」


 右近がさらに余計な一言を口走った。


「な、何?」


 色をなした利之進は右脇に置いた大刀をつかんで半立ちになった。


「それでは静馬どのは拙者を欺き、今の今まで愚弄しておったのか。拙者が真摯に相談しておる折にも、後ろを向いて舌を出しておったのだな」


 大刀の鞘で畳を力いっぱいどんと突いた。


 舞い上がった埃が灯火にきらめいた。


「ち、違います。右近どのは誤解しておられるのです」


 静馬は大慌てで打ち消した。


 額にどっと汗が噴き出す。


「その通りです。わたくしが下僕の妻であろうはずがありませぬ!」


 お熊もきっちり打ち消してくれた。


(あまりの言いようではないか)


 むっとしたが、この際咎めるわけにもいかない。


「むむむ。お隈どのがそこまで申されるなら信ずるほかあるまい」


 妙に得心した利之進は、大刀を身体の右側に置いて、再びどっかと腰を下ろした。


「おい、おい。あの夜、拙者も同席しておったぞ。とくと見たのだ」


 今度は右近が心外そうな顔で話を蒸し返した。


「右近も正しいが、お熊の申すことも嘘ではありませぬぞ」


 墨伝がのんびりした口調で口を挟んだ。


 利之進の顔色が青くなったり紅くなったり、目まぐるしく変化した。


「ともかくしかと子細を伺わねばならぬ。お隈どのを我が妻に迎えんとしておった拙者の面子はどうなるのだ」


「どういうことでしょうか」


 利之進と右近がほぼ同時に墨伝に詰め寄った。


「つまりじゃな」


 墨伝がゆったりとした口調で語り始めようとしたとき、お熊が呂律の回らぬ口で叫んだ。


「いったい、何の話なのですか? わたくしが利之進どのの妻にですと?」


 その場ですっくと立ち上がった。


「盟友として親しくしておっただけです。道場破りの妻になる気などありませぬ!」


 昨日まで、仲睦まじい素振りを目の当たりにしていただけに静馬は大いに驚いた。


(すべて拙者の取り越し苦労だったのか)


 残念な気持ちと、安堵と拍子抜けな気持ちがごちゃ混ぜになってめまいがしてきた。


「お隈どの、それはあまりと言えばあまりな言いよう。さきほどの言葉は嘘偽りで、やはり静馬の妻ゆえそのように罵倒されるのか」


 利之進が鬼の形相で、お熊と静馬を交互に睨んだ。


「おお、お熊に婿どのが二人も現れたとな。愉快、愉快じゃ。なあ、右近」


 酔っぱらった墨伝が手を叩きながら茶々を入れ、これまた酔っぱらいの右近が馬鹿笑いしながら何度も頷いた。


「拙者を愚弄いたすか。やはり下賤の者どもは救い難い」


 利之進も立ち上がって、お熊と半間ほど間を空けて正対した。


「下賤の輩とはどういう言い草でしょうか。ますます見損ないました」


 お熊が利之進に噛みついた。


「わたくしも心外です。やはり利之進どのも、身分をかさに着た愚劣なお方でしたか。所詮、わたくしたち下々の者とは住む世界が違っておりましたな」


 静馬は己の口から思いがけず飛び出した悪態に驚いた。


(酒は怖い。だからこそあの夜も……)


 一年ほど前の、忘れもしないあの夜の酒宴を思い起こした。


「道場破りは出て行きなさい!」


「嘘つきに指図はされぬ!」


 いつの間にかお熊と利之進との間合いが縮まっていた。


 今にもつかみ合いの喧嘩になりそうな二人を見て急に酔いが醒めた。


 そもそもそれほど吞んではいなかったが。


「利之進どの、しばしお待ちを。わけをゆっくり話しますゆえ、右近どのもお聞きください」


 畳の上を膝行して利之進と右近の間に座した。



「一月余り前のある夜でした。その夜も右近どのがお越しでした」


 右近に同意を求めるように目を合わせた。


「したたかに酔った墨伝先生が、わたくしとお熊どのとの祝言の真似事をされたのです。酒の上の戯れ言ゆえ、おっしゃるままに盃事をして皆で笑い飛ばしました。いつものごとく、翌朝にはすっかり忘れておいでだと思ったのですが」


 一つ息をついてから話を続けた。


「朝になって墨伝先生が『武士に二言は無い。酔いの上とはいえ祝言は祝言じゃ』と言い張られまして……」


「いったんこうと言い出すと聞かねえ師匠だからな」


 茶碗の酒をあおりながら右近が相槌を打った。


「では戯れ言からまことに変じたと申すのか」


 利之進は納得できぬといった顔で角張った顎をなでた。


「このわたくしが下僕同然の者を婿にするなどとんでもありませぬ。剣客として、我が道場の師範代として、尊敬できる人物なら話は別でしょうが」


 お熊は静馬を横目でじろりと睨んだ。


「剣客としてもまったく未熟、おまけに男らしさがなく、気弱ではっきりしない。ただの一度も喧嘩したことがなく、誰にでも優しくて、いつもへらへらしている腰抜けです。誰にでも気に入られようとするのは、浅ましい下僕根性です。卑屈過ぎます。へろへろしたまるでこんにゃくのような男の妻になるなど死ぬも同じです。承伏しかねましたから、はっきり父上に申し上げました」


 確かにお熊の言い分は当たっている。


 静馬はむっとしながらもじっとうつむいていた。


「お熊がこれほど嫌がるものを無理強いもできぬ。さりとて武士に二言があってはならぬ。わしはお熊が承知するような立派な男になるまで静馬に猶予を与えることにいたしたのじゃ」


 墨伝は悟りを開いた隠遁者のような顔で厳かに告げた。


「ふだんは静馬としか呼ばぬから、姓が変わっておらぬことに気づかなかったな」


 右近は得心したように首肯しながら、墨伝の茶碗に酒をなみなみと注いだ。


「では、し、しかるべきときが来れば夫婦になると?」


 利之進は酔いが吹っ飛んで顔面蒼白になった。


「しかるべき日など来るわけがありませぬ」


 お熊はふんといった顔で天井に目を向けた。


 続いて煙草盆から銀煙管を取って、刻み煙草の葉を詰め始めた。


 煙草盆は螺鈿で縁取られた風呂桶形で、墨伝が兄から譲られた逸品だったが、お熊が手荒に扱うので縁が少し欠けていた。


「お熊どのを我が身より大事と思うておりますが、一人の女性と見るにはその……」


 言い分があったが飲み込んだ。


 女として認めていないと言えば、いくらお熊でも傷つくに違いなかった。


「ともかくまだ人別帳へも記載されておりませぬ。ですから夫婦でも何でもないのです。この先もそのようなことはありませぬ」


 煙草に火を点けるお熊に、


「では、お熊どの、いまだに二人は清い間柄というわけだな」


 右近が利之進の疑問を忖度して念押しした。


 口元が今にも笑い出しそうに、いや、好色そうにゆがんでいる。


「残念ながら、どちらも奥手でな」


 墨伝がぽつりとつぶやいた。


(お熊どのを拙者に託そうとしてくださる墨伝先生のお気持ちはありがたいのだが)


 やはり無理なものは無理である。



 お熊は妹であり姫なのだ。



(拙者はやはりお八重どののような女子が好みだ)


 紅屋の娘、お八重の象牙を欺く白い額際を思い浮かべてみた。




 だが……。



(お熊どのは日焼けをいとわず出歩くせいで顔は色白とは言えぬものの……)


 赤子の頃から世話をしていた静馬である。


 肌の白さはお八重よりも勝っていることを思い出した。




 右近が無言のまま利之進に茶碗を手渡し、酒をなみなみと注いだ。


「よし分かった。すべてはまだ白紙なのだな。拙者は諦めぬぞ」


 あぐらをかいて腰を落ち着けた利之進が、満足げな笑みで茶碗酒をあおった。


「下僕も道場破りもわたくしはお断りです」


 お熊は煙管を豪快に吹かせたものの、たちまちげほごほと咳き込んだ。


               了

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