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第20話   『一生涯、この姫君を守る』と誓ったのに……

「見掛けによらずよく耐えたな」


「白状したとあっちゃあ、牢内の面汚しってえことで、放りっぱなしにするところだが」


「よう~く介抱してやるからな」


「それにしても百回以上、打たれて気絶しなかったとは、さすがに辻斬りはえれえもんだ」


 牢屋敷内の穿鑿所から牢内に戻された静馬は、囚人たちの手で、下帯一つにされた。


「よう~く揉み和らげてやんな」


 牢名主の言葉で体中に酒を吹きかけられた。

 囚人たちがあたり構わず揉み始める。


「笞打ちで痛めつけられた身体が、さらにさいなまれて苦しいもんだが我慢しろよな」


 うつぶせにされ、五人がかりで手、足、背中、尻を力一杯揉みほぐされる。


「こうすりゃ、痛みが早く取れるんでえ。回復だって早くならあ」


 脇に腰を下ろした添役が欠けた歯を見せながら、品の無い笑みを浮かべた。


 極悪そうな顔全体に親切心が広がっている。


(このような荒療治に効果があるとも思えぬが)


 囚人たちの厚意を黙ってありがたく受けるしかなかった。


「安心しな。身体が回復するまで呼び出されねえことになっているからな。数日の間は寝てられらあ」


「この介抱を何回か受けているうちにゃ、ずいぶんと身体が頑丈になって、次の拷問にも負けねえ身体になるって寸法よ」


 三番役が誇らしげに胸を張った。


(その理屈でいえば、拷問で白状する者はいなくなるはずだが、実際は白状に到らぬ剛の者など、ほとんどいないと聞くぞ)


 静馬は笑いをこらえた。


 一時だけの縁にせよ、情が通い合うことが心を温かくした。


「あ、あの角役さんは?」


 戸口前で囚人の出入りを世話する角役の姿が見えないことに気づいた。


「今朝、静馬が吟味に呼び出された後、すぐにお仕置きで呼び出されたんでえ」


 さきほどまで介抱で大張りきりだった添役が、しんみりした口調で告げ、一座がしんと静まりかえった。


 将軍の忌日のほかは、毎日、誰かがお仕置きのために引き出されて消えていく。


「立派にお仕置きになったろうよ」


 相撲取りのような体躯をした牢名主は、厳かな口調で付け加えた。


 大牢内には百二十から百八十人もの囚人が収容されている。

 毎日、誰かが姿を消して誰かがあらたに入牢してくる。


 お仕置きが決まった者は、いつ処刑されるかと戦々恐々としている。


 決まっておらぬ者は、軽微な罪の者たちは別として、いかなる刑罰に処されるか不安この上ない。


 それぞれが平静な心持ちではおられぬ闇を抱えていた。

 拷問の恐怖もある。


(それぞれにとって、ここは生き地獄だ)


 だからこそ、さして理由もなく私刑が横行し、理不尽な作造りが行われ、短く細い縁だからこそ、お互いをいたわり合うのだ。


 人がもつ優しさと残酷さが、ここでは同時にはっきりした形で現れていた。


「船乗りの『板子一枚下は地獄』のたとえではないが、一寸先は地獄なのだからな」


 皆に聞こえぬよう小声でつぶやいた。





 就寝の刻限となった。


 大牢内は昼間でさえ日が差し込まず暗い。


 灯りがまったく無いため、夜ともなれば真っ暗だった。


 いびきや歯軋り、うなされる声だけが蒸し暑い牢内に響く。

 静馬はうつぶせのまま、じっと痛みと高熱に耐えるしかなかった。


(これまでの暮らしがこの上なく幸せだったと、今になって気づくとはな)


 師とも父親とも頼む墨伝がいて、実の妹同然、いや、下僕としてお仕えすべき姫君がいた。


 貧しいながらも、今の暮らしをさらに豊かにする望みがあった。


 お熊の笑顔が眩しく蘇った。



 静馬がまだ幼く、お熊が生まれて間もない頃だった。


 壊してしまわぬかと恐れながら人差し指をそっと近づけたところ、ぎゅっと握りしめてくれた。


 思いも寄らぬ強い力に、


『一生涯、この姫君を大切に守る』と心に誓った。



 だが誓いは儚い夢となって消え去らんとしていた。



(数日後には、また笞打ちか、それとも次は石抱きであろうか)


 ささくれだった畳の目を見つめながら鬱々としていたときだった。


 なにやら騒がしい物音が聞こえてきた。

 焦臭い臭いまで漂ってくる。


「火事か」


 静馬は跳ね起きた。


 ほかの囚人たちも起き出して騒ぎ始めた。


「近いんじゃねえか。せいぜい派手に燃えてくれろ」


「牢屋敷にもそろそろ燃え移ってるんじゃねえか」


 期待を込めて嬉しげに言い合う声が聞こえてきた。


 大火があって牢屋敷に火が迫れば、三日間を限りに〝切り放ち〟が行われる。


(これは拙者にとっても僥倖といえよう)


 たった三日とはいえ、冤罪を晴らすためにみずから動くことができるのだ。


(切り放ちの慣例は、かの明暦の大火の折から始まったと聞く)


 明暦三年(一六五七)一月十八日に、本郷丸山町本妙寺から出た明暦の大火では、十万人以上の死者が出た。


 その折この小伝馬町牢屋敷にも火の手が迫った。


 当時の牢屋奉行だった石出帯刀吉深は、百数十名の囚人が焼死することを憐れんで独断で解き放ったが、全員が全員、約束の刻限までに戻ってきた。


 囚人たちをあっぱれに思った帯刀は、死罪も含め、罪一等の減刑を老中に嘆願し、幕府は囚人全員の減刑を行った。


 人家が立ち並んだ小伝馬町では類焼が免れないため、以降、何度も切り放ちが行われていた。


「娑婆の空気が吸える上に、戻れば罪一等減じられるんだ。こりゃあ運がいいや」


「これで、おらあ、遠島を免れて追放になりそうでえ」


「俺は百敲きが五十にならあな」


 弾んだ声が暗い牢内のあちこちで湧き上がった。


 三日目までに戻ってくれば、死罪は遠島に、遠島は追放になるから、囚人たちが手放しで喜ぶのも無理はなかった。


 逆に、戻らぬ場合は死罪となり、親兄弟や親族にまで咎が及ぶ。

 親類縁戚が監視して無理にでも戻すため、戻らぬ者はほとんどいないという。


「柔らけえ布団の上でのびのび寝られらあ」


「俺りゃあ、あったけえ白飯が食いてえ」


 三日だけでも至福のときを味わえると浮き足だっているうちにも、どんどん煙の臭いが立ち込めてきた。


「まだかよ」


「遅えじゃねえか」


 浮かれていた囚人たちの間にも、しだいに不安が広がっていった。


「早ええとこ出してくんな」


「こんな所で蒸し焼きはごめんでえ」


 牢格子をつかんで皆がわめき始めた。



「静かにせんか」


「今、調べておる」


 雑役を務める張番がやってきて怒鳴りつけるが、声は囚人たちの叫びでかき消される。


 いよいよ火の手が迫ったらしい。

 煙が目にしみる。煙にむせる。


(近場であってもさほどの火事ではないため、切り放ちは行われないのか)


 期待が大きかっただけに落胆も半端ではなかった。


「おーい。どうなってやがんだよ~」


 威勢が良かった囚人たちの声も、湿り気を帯びた口調に変わった。


(やはり切り放ちはないのか)


 お熊の子狸のような黒く光る瞳が、ついっと目の前に浮かんだそのときだった。



 鍵役たちが灯りを手にして外鞘の内に姿を現した。


「切り放ちと決まったゆえ、まずは手当者を外鞘に出せ」


 鍵役が牢名主に命じた。


「手当者とは何でしょうか」


 静馬は近くにいた添役に尋ねた。


「死罪や遠島の者は本縄を掛け、もっこに乗せて移すんだ。重罪の者は切りほどかれねえ」


 添役の言葉に、背中から冷や水を浴びせられたような寒気が襲ってきた。


「では、わたくしも切り放ちは無いということでしょうか」


 恥ずかしいほど声が震えた。


「いや、あんたはまだお裁きを下されてねえから大丈夫だ」


 添役の言葉にどれだけ信が置けるか分からなかったが、


「ではまず、二番役の長太郎、次に銀兵……」


 牢名主が重罪人を順に呼び出して外鞘に出していく。


 張番が手早く縄を掛けて牢庭へと引き立てた。



 いつ呼ばれるかと動悸が激しくなった。


 だが……。



「……以上でごぜえやす」


 牢名主の声に、静馬はほっと安堵の吐息を吐き出した。


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