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第10話  下僕と命名される静馬

「ではお気をつけて」


 蟻通の家に戻るお熊と墨伝を見送った。


 別れ際にお熊は小声で、


「暮れ六ツにまた大門の前に参ります。仇討ちの一件は父上には絶対、内密ですよ。静馬どのは戦術を考えて準備しておきなさい。分かりましたね」


 言明して立ち去っていった。




(大変なことになってしまった)


 げんなりしながら再び吉原の大門をくぐった。




 口書を取るため、右近が目撃した者を面番所まで呼びつけたところ、口をそろえて『甲が文次郎に殺されるところを見た』と言い出した。


 文次郎の持っていたという長脇差が見つかったが、べったりと血が付いており、右近はその旨の口書と検分の結果を記した検分書を作成せざるを得なかった。


「やはり見立て通りになりましたね、右近どの」


 夕刻、面番所の畳の間で対座しながら、千八の子分が煎れた熱い茶をすすった。


 馥郁とした銘茶の香りに心が緩み、今になって疲れがどっと襲ってきた。


「静馬らの話も口書に記すがよ。お上も吉原内のもめ事に口を突っ込みたくねえからな。逆恨みした文次郎が、遣り手を殺害したうえ楼主殺害に及んだが失敗に終わったとされるだろうな」


 右近は渋い顔で湯飲みを置いた。


 渋い表情は茶の渋さではないだろう。


「残念です。真相を突き止めながら、悪事が見逃される結末とは得心できませぬ」


 激しい悔しさが、ふつふつと込み上げてきた。




 お熊の固い決意は翻せない。


 お熊のお甲への誓いは己の誓いでもあると思えてきた。


「わたくしはまだ諦めておりませぬ。悪をこのまま野放しにしておけませぬ」


 言葉が思わず口をついて出た。


 しまったと思ったが、出てしまった言葉は口中に戻せない。


「ほほう。ではどうするってんだ。まだ探索を続けるってか?」


 右近は意地の悪い目を向けながら口の端をゆがめた。


 何年も道場に通っている右近はお熊の気性をよく知っている。


 嫌な汗を腋の下に感じた。


「揺さぶりをかけて尻尾をつかもうと存じます。右近どのには迷惑がかからぬようにいたします。ですから子細は訊かずにおいてください」


「ふふん。何だか良く分からねえが、おれっちでできることは何でもするぜ」


 右近は片目をつぶってみせた。


「つきましては、右近どのに二つお願いの儀がございます」


 証拠として押収され、面番所の土間に置かれていた生人形を借り受けるとともに、会所に掛け合ってもらい、女であるお熊が吉原の大門を出入りするための大門切手を手に入れてもらった。


「無理はするなよ」


 会所から戻った右近は、大門切手の札を手渡しながら意味ありげに口角を上げた。


(このにやりが怖い)


 まずい事態になった場合、あくまで静馬たちが勝手にしたことにする心づもりなのだろう。


「そうそう、言い忘れておった。倉田屋の裏手の黒塀だが、忍び返しが一部、外れかけておる。古くなっておるゆえ、近々、ぐるり、すべてを取り替えるそうだ」


 右近は独り言のようにつぶやいた。


「それは不用心でいけませぬな」


 にっこりと極上の笑みを返したものの、右近はもう静馬のほうを見ておらず、


「今日は疲れたの、しばし眠るか」


 背を向けて畳の上に寝転がった。


 静馬は肩幅の広い右近の背中に、深々と頭を垂れてから面番所を後にした。




 急いで大門から外に出て、あたりをきょろきょろと見渡した。


(いた、いた)


 大勢の中で、しかも闇に溶け込む黒地の着物にもかかわらずすぐに見つかった。


「お熊どの」


 仏頂面しているのか、緊張しているのか分からぬ顔のお熊に呼び掛けた。


「ではそろそろ参りましょうか」


 お熊を廓内へと誘った。




 倉田屋の裏手にある細い路地に潜んでいると、大引け(午前二時)を報せる拍子木の音が聞こえてきた。


「本名を呼び合うと正体がばれてまずいです。わたくしはお熊どのを〝姫〟と呼びます。お熊どの、いや、姫もわたくしを別の名で呼んでください」


「分かりました。では姫はそちを〝下僕〟と呼ぼうぞ」


 静馬の提案にお熊は即答した。


「ええっ?」


〝殿〟を予想していた静馬は、思わず頓狂な声を発してしまった。


「わらわが姫なら当然じゃ」


 お熊は澄ましている。


「はい、はい、承知いたしました、姫」


 静馬は苦笑した。


「言い慣れておかねばならぬ。下僕、下僕」


 お熊は丸い目を輝かせながら、愉快そうに何度も復誦した。




「いざ、出陣でござる、姫」


 二人は手早くたすき掛けし、袴の股立ちを取ってから、おもむろに覆面をした。


 仇討ちというよりまるで泥棒である。


「何だか武者震いいたしますな、姫」


 雲詔はかなりの遣い手らしい。


 強い相手と命を懸けて存分に戦う機会だと考えれば、動悸が増して握りしめた拳がわなわなと震えた。


「静馬、いや下僕が震えるのも無理はない。下僕はわたくしの手助けをすればよいのです。雲詔はわたくしが必ずや倒しますゆえ」


 お熊は静馬の実戦における実力を知らない。


 尻のあたりがむず痒くなった。


(問題は……)


 真剣勝負においてお熊がどれほどの剣客なのか、まったく予想がつかないことだった。


(実際に手合わせせねば、実戦における実力の優劣は明らかにならぬからな。しかも……)


 勝負は紙一重の差で決まる。


 下手が上手を打ち負かす例は枚挙に暇がなかった。


(一命に代えてもお熊どのを守るつもりだが、守りきれぬ瞬間が無いとはいえぬ)


 みずからが剣客として死ぬなら悔いは無い。


 だが、静馬が雲詔に破れた場合、お熊はどうなるのか。


 お熊の身を案じれば肩に力が入った。


 水面に氷が張るようにがちがちに固まってくる。


 今からでも企てを中止したくなった。


「やはりほんとうに……」


 言いかけたが、お熊に一睨みされてしまった。


「姫、くれぐれも無理なさらぬよう願います。危うくなれば、下僕を見捨てて逃げると今ここで約束してください」


「敵に後ろをみせるわらわと思うのか」


『平家物語』に出てくる大力・強弓の女武者巴御前気取りのお熊は、ぴしゃりと拒絶した。




「火の用心さっしゃりましょう」


 夜の寂寞を破って火の番のよく通る声が響いてきた。


 吉原では屈強な者より美声の者が火の番に選ばれるという。


 もの悲しく響いてくる犬の遠吠えが火の番の声と和した。


「何をぐずぐずしておる。下僕、早くその忍び返しを外しなさい」


「は、はい、姫」


 朽ちた忍び返しを難なく外した。


 体術に長けた二人が塀を越えるなど造作もない。


 姫と下僕は音もなく楼内に忍びこんだ。


「こちらです」


 先日の記憶を頼りに、奥まった位置にある鉄五郎の部屋を目指した。




 広い庭は月の光に照らされていた。


 静馬は背中に背負った風呂敷包みの重さをずしりと感じた。


 中には文次郎が精魂こめて作った生人形が入っていた。


「まるで盗人ですがしかたありません」


 戸袋に近い雨戸に小柄を差し込んで慎重に〝猿〟を外した。


 戸の框や桟に取り付けられる猿は、敷居や鴨居の小穴に押し込むことで戸を動かなくする材だった。


「手つきがいやに鮮やかではありませぬか」


「墨伝先生に叱られて家から閉め出された折、寝静まってからそっと入ったことが幾度かありましたもので」


「そうした翌朝も、静馬どのは何食わぬ顔つきで朝餉の用意をしていて、父上もまったくいつも通りなことが姫には不思議でした」


 二人で顔を見合わせてふふふと笑った。


 肩の力が抜けていく。


 墨伝はそ知らぬふりで許してくれたのだと思っていたが、今にして思えば、酒癖の悪い墨伝が、閉め出したことさえ覚えていなかったのではないかという気がしてきた。


 懐から竹筒に入った菜種油を取り出し、敷居に流し込んで雨戸の滑りを良くした。


「用意が良いことですね」


 お熊はいちいちうるさい。


「くれぐれもお気をつけて」


 暗い廊下を忍び足で歩いた。




 鉄五郎の部屋からはほんのわずかだが灯りが漏れていた。


 枕元に置いて終夜灯しておく有明行灯だろう。

 大きないびきが聞こえてくる。


「憎らしいいびきだこと」


「文次郎さんを始末したゆえ安堵しておるのでしょう」


 腰高障子をほんの一寸ほど開くと、暗い座敷の中央に豪勢な布団が敷かれ、鉄五郎と若い女が眠りこけていた。


 布団の傍らには、肴の食べ残しが入った鉢や皿と、空になった銚子や盃が転がっている。


「鉄五郎が脅えるとは思えませぬが、せめて文次郎の人形で嫌がらせをしてやりましょう」


 障子をさらに一尺ほど開けると、持参した包みから生人形を取り出して隙間から差し入れた。


 人形の髪は乱れに乱れて、顔や衣装はお甲の血で汚れている。


 触るだにおぞましい代物だった。


「親父さま、甲にございます~。黄泉路はたいそう暗うございます~。何とぞご一緒に~~~~。て、つ、ご、ろう、さま~~~」


 お熊が芝居がかった低い声を出した。


 真に迫っていてなかなか役者である。


「ん、な、何だと!」


 鉄五郎が横に寝ていた女を突き飛ばしてがばりと跳ね起きた。


 女は一瞬、何が起きたか分からず、きょとんとしていたが、次の瞬間生人形を目にして、


「ひえええぇ」


 締め殺される鶏のような悲鳴を上げた。


 腰を抜かしながら部屋の片隅へ這って逃げる。


「しゃらくせえ。文次郎の仲間だな」


 鉄五郎は身軽な動きで飛び退ると床の間に置いた長脇差をつかんだ。


 静馬ががらりと腰高障子を引き開ける。


「お甲どのと文次郎どのの仇!」


 お熊とともに座敷に乱入した。


「雲詔さま、来てくだせえ。おーい、野郎ども、来ねえか」


 鉄五郎が大声で呼ばわった。


「いかがいたした」


 布団を蹴飛ばして起き上がる気配がした。


 座敷の間の襖が左右にがらりと開き、錫杖を手にした雲詔が現れた。


 白い寝間着姿ながら衣服の乱れはなかった。


 怒声に続いて、どやどやいう足音とともに、寝乱れた半裸の男たちが、大刀や長脇差を手に躍り込んできた。


 雲詔の弟子に扮していた不逞浪人や破落戸どもだろう。


「ようやく役者がそろったようだな。てめえら許さねえ」


 右近のようなべらんめえ口調が口をついて出た。


「やっちまえ」


 用心棒たちが、次々に斬りかかってきた。


「斬る!」


 静馬とお熊は、ほぼ同時に抜刀した。


「雲詔、拙者が相手だ」


 雑魚には目をくれず、雲詔に切っ先を向けた。


「雲詔はこの姫が……」


 お熊が叫んだが、


「やろ―っ!」


 破落戸たちがお熊に殺到してきた。


「何の」


 お熊は軽く身をさばくや太刀を浴びせた。


 無造作な一閃だった。


「ぎゅえっ」


 鮮血が男の脇腹から噴き出す。


 お熊が返り血を避けて機敏に飛び退く。


 男は蛙がひしゃげたような叫びとともに、もんどりうって倒れた。


「わしが相手だ」


 浪人者が大刀を大きく振りかぶった。


 だが、お熊の気迫に押された。


 振りかぶったまま無闇に気合いばかり掛けて間合いに入らない。


 お熊と浪人は睨み合った。


 お熊は落ち着いている。

 迷いがない。


 初めての実戦でも堂々としたものだった。


 天然理心流では技よりも心の強さを重んじる。


(お熊どのの心は強靱だ。まずは信じて任せよう)


 庭先に下りて雲詔と対峙した。


「わしが相手をしてやる。来るがよい」


 身体の陰で錫杖から白刃が放たれた。


 刀身が見えぬよう、脇に構えて腰で隠している。


 刀身の正確な長さが分からない。


 間合いを悟らせぬつもりなのだ。


 太刀筋も不明だった。


 視界の端にお熊の姿をとらえながら、雲詔との間合いを慎重に詰めた。


「せいっ」


 背後から浪人が斬撃を放ってきた。


 集中していた〝気〟が乱れた。


「きえええっ」


 雲詔の鋭い突きが、浪人の刃をかわした静馬に襲いかかってきた。


 間一髪、体さばきでかわしながら、浪人の裏小手を切り上げた。


 浪人はきりもみしながら転倒した。


 刹那、脇腹を雲詔の剣先がかすめた。


 ひやりとした感触が総毛立たせる。


 座敷の廊下から飛び降りた別の浪人が、大刀を振りかざして打ちかかってくる。


 乱戦になった。


「とう」


 身体をひねってかわすと浪人の右小手を打った。


 敵の掌が真っ二つに切断された。


 大刀が地に落ちる。


 静馬の切っ先が浪人の腹をずぶりと貫いた。


 浪人がどっと倒れ伏す。


 お熊は破落戸を二人斬り伏せ、別の浪人と激しく斬り結んでいる。


 お熊が優勢で浪人は追い詰められていた。


 鉄五郎側の旗色が悪くなった。


「くそが」


 雲詔の白刃が迫ってくる。


 面打ちに踏み込んできた。


(こうなれば……)


 下段にあった剣先を突き上げる。


 捨て身で喉元を狙った。


「しぇいっ!」


 苛烈な捨て身が効を奏した。


 静馬の気迫に一瞬吞まれた雲詔の負けだった。


 手応えがあった。


「うごぁ!」


 雲詔は血反吐を吐いて倒れた。


 雲詔の身体がごろごろと転がって楓の木の根元で止まる。


 手足が力を失ってだらりと弛緩した後、それきり二度と動かなくなった。


(お甲さん、文次郎さん、仇は討った)


 勝利の喜びがひたひたと胸を浸した。




 山場は超えたと思えた、そのとき。


「危ない!」


 悲鳴のような一声とともにお熊の剣先がきらめいた。


 ほぼ同時に短筒の発射音が響く。


 弾は大きくそれ、庭の石灯籠に当たって鈍い音をたてた。


「……」


 短筒を握ったままの鉄五郎は、声もなく身体を一捻りした後、どっと布団の上に突っ伏した。


「このあま!」


 破落戸がお熊の背後から突いてきた。


「む」


 振り返りもせず、身体を少しさばいただけで敵の胴を刺し貫いていた。




 お熊が残心をとった。


 背筋をすっきりと伸ばした姿が、有明行灯のわずかな光に影絵のように浮かびあがった。


「おく……、いえ、姫、かたじけない」


「飛び道具とはいかにも卑怯者の鉄五郎らしいことです」


 お熊は大人びた口ぶりで言いながら、拭いを掛けた刀を鞘に納めた。


「お恥ずかしい。強敵の雲詔を倒したと油断しておりました」


「わたくしなら手こずらずに雲詔を斬り捨てられました」


 尖り気味の顎を上げながら、お熊は辛い評価を下した。


(家に帰ったら、さっそく古井戸で悪態をつかねば)

 と考えながら、


「恐れ入ります、姫」


 深々と頭を下げた。




 騒ぎに気づいた見世の者や客たちが騒ぎ始めた。


 恐れをなして近寄って来ないものの、早く立ち去るに越したことはなかった。


 辻平もいる。


 体つきや声音から、万が一、静馬だと見破られてはまずい。


「ともかく早く逃げましょう」


 戦いの余韻にひたるお熊を促した。







 瞬く間に数日が経った。


「よう、いつもご苦労なこってえ」


 道場にやってきた右近が、門前で掃き掃除をしていた静馬に声を掛けてきた。


 今日も角樽に入った酒や、重を包んだ風呂敷包みを小者に持たせ、みずからは稽古着や稽古道具を担いでいる。


 前庭で盆栽の世話をしていた墨伝が、ちらりとこちらを見た。


 右近が墨伝に礼儀正しく一礼し、墨伝はおうように頷く。


「お熊、右近が来たぞ」


 墨伝はすたすたと母屋に戻っていった。


 右近は、小者に勝手口から先に入るよう命じてからこちらに歩み寄ってきた。


「鉄五郎も雲詔も、倉田屋に忍び込んだ何者かに斬り殺されちまった。あいつらの罪を暴けねえままに終わっちまったぜ。残念なこってえ」


 しらじらしく小声でささやきながら、髭の剃り跡も青々とした顔を寄せてきた。


「いったい何者の仕業でしょう。わたくしもお熊も拍子抜けしております」


 声を落としながら調子を合わせた。


「奇っ怪なこともあるもんでえ、なあ、静馬」


 右近は晴れ渡った朝の空を見上げながら大きく息を吸い込んだ。




 今日も暑くなりそうだった。


「鉄五郎は病死、雲詔らは仲間うちの喧嘩で死亡したとされちまったぜ。楼主連中の意向があるものの、下手人を野放したあ、けしからんこった。なあ、〝下僕〟どの、いや、若先生よお」


 言い置くと、右近は稽古場の入り口へと向かった。


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