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第9話   仇討ちを約束してしまうお熊

 客が付いた遊女も、付かなかった遊女も寝入る大引け――暁八ツ(午前二時)を過ぎて半刻ほど経った。各楼は大戸を下ろして、通りは人影もまばらである。


 風鈴そば屋の声が小さく響いてきた。


 通りの真ん中に並んでいる《誰そや行灯》の情緒溢れる灯りの色も、今は寂しげな風情をたたえていた。


「火の用心さっしゃりましょ~、二階を回らっしゃいましょう」


 左手に台提灯を持った火の番が、右手で鉄棒をじゃらじゃら鳴らしながら、やる気のなさそうな足取りで目の前をゆっくりと通り過ぎた。


 よく響く声はなかなかの美声だった。



(居残ってうろついたものの成果はなしか)


 お熊のふくれっ面を思い浮かべながら、星の瞬く夜空を見上げた。


「ん? あれは?」


 倉田屋の大屋根に、女物の小袖の裾らしき影がちらりと翻った。



(舞袖の亡霊だったりしてな)


 目の錯覚と苦笑しながらも二の腕が泡立った。


 疲れと眠気のせいだろう。


「面番所に戻って、吉原が目覚める暁七ツ(午前四時)まで待つか」


 言いながら大きく伸びをした。


 暁七ツになれば掃除の者たちが働き始め、茶屋の者たちが朝帰りの客を迎えに来始める。




 江戸町二丁目の通りを仲の町の方向へと歩を進めたときだった。


 背後から騒がしい物音が聞こえてきた。


「もしや」


 江戸町二丁目の通りを取って返した。




 やはり倉田屋だった。


 戸締まりされた見世の中から、叫び声、どたどたと走り回る足音、何かが倒れ、壊れる音がする。


 騒ぎは一階で起きているらしかった。


「おい、どうした」


 倉田屋の潜り戸をどんどんと叩いた。


「ひええええ」


「幽霊が出たぞ」


「人殺し~」


 二階に泊まっていた客や遊女たちも起き出して騒ぎがさらに大きくなった。


 ガラッ。


 倉田屋の潜り戸が勢いよく開かれて男が一人が出てきた。辻平だった。


「どうしたのだ」


 辻平の袖をつかんで引き止めた。


「どうもこうもねえよ。急いで面番所に知らせに行かなきゃならねえ」


「何があったのだ」


 面番所へ向かう辻平とともに通りを駆けながら尋ねた。


 うっかり大坂訛りを忘れていたが、辻平も動揺しているため気づかなかった。


「舞袖の幽霊が屋根に現れたんだ。騒ぎの間に親父(楼主)さんが賊に襲われたんでえ。雲詔さんが仕込み杖で退治してくださったんだが、そりゃあ凄い腕だったぜ。ともかく親父さんが無事で良かったぜ。親父さんはこんな生業に似合わねえ良くできたお方だからよ」


 辻平は息を切らせながら、興奮した口ぶりで一気かせいに告げた。



 さきほど見えた着物の裾は錯覚ではなかったのだ。


(賊というのは文次郎さんではないのか?)


 蛇遣い小屋のおさちの影の薄い立ち姿が頭をよぎった。


「ほかに死人や怪我人は?」


 お甲が気掛かりだった。


「お甲さんが巻き添えを食って傷を負ったらしいぜ。おれっちがこの目で見たわけじゃねえがな」


 言い置いてから、辻平は面番所の中にあたふたと駆け込んでいった。





 暫時後、静馬は右近とともに倉田屋に入った。


「人形師の文次郎に相違ねえな?」


「間違いありませぬ」


 黒っぽい装束に身を包んだ文次郎は心ノ臓を一突きされ、提灯の灯に照らされた庭の苔には、黒い血溜まりができていた。


 右近が検分を始め、岡っ引きの千八と子分が人を近づけないように見張っている。


 番所、会所から駆けつけた者たちが賊の仲間が潜んでいないか廓内を調べ始めた。


(あの男が雲詔か)


 求道とはほど遠そうな不遜な面構えをした山伏が、小鼻を膨らませながら傍らに突っ立っていた。


 修験者特有の《兜巾》をかぶり、袈裟に篠懸という出で立ちで錫杖を手にしている。


 錫杖は並みの錫杖より太く、細身の直刀が仕込まれているらしかった。



 静馬は無念そうな表情を浮かべた文次郎の遺体に向かって、嫌味なほど丁重に手を合わせた。


「おい、小僧、てめえは何者だ。斬り殺されて当然の賊になぜ手を合わせるのだ」


 雲詔が横柄な口調で威嚇してきた。


「おめえが雲詔てえ山伏かい。おれっちの大事{でえじ}な手下{てか}にケチをつけるんじゃねえやい」


 右近がすかさず一喝した。


(拙者が右近どのの手下だと?)


 少しばかり腹が立ったが、むろん口に出さずにおいた。


「山伏が仕込み杖たあ~、穏やかじゃねえな~」


 右近が歌舞伎役者が見栄をきるような、ふざけた仕草をし、雲詔の顔が怒りで青くなった。


「雲詔さまは、元お武家さまで、薬丸自顕流の達人でごさいます。雲詔さまのおかげで危うく難を逃れましてございます」


 恐怖が冷めやらぬ鉄五郎が、青ざめた顔で付け加えた。


「親父が無事で何よりでえ。女将のお滝がおっ死{ち}んで、立て続けに親父までとなりゃあ、倉田屋存亡の危機ってえわけだからなあ。上々、上々」


 右近は口先だけで鉄五郎の無事を喜んだ。


「そうそう、右近さま」


 鉄五郎は右近に近づいて声を落とした。


「なんと、頼りにしておりました甲めがとんだ女狐でございましてね。賊を引き込んだだけでなく、あのような人形を使って騒ぎを起こしておったのでございます。甲めはわたくしの大事な大事な女房、お滝の仇でございました」


 鉄五郎は憎々しげな表情で言葉を続けた。


「甲めをいぶり出すにつきましては、雲詔さまの弟子に化けさせた用心棒どもが役に立ちましてございます。取り逃がしましたものの深手を負っておりますから、そこらでもう事切れておると存じます。今、見世の若い者に探させております」


 身振り手振りを交えながら一気に言い終え、鉄五郎は出っ張った腹の前で両手をゆっくりと重ね合わせた。


「これが件の生人形ですか」


 しゃがみ込んで、庭にうち捨てられた血まみれの生人形に触れてみた。


 顔が精巧に作られ、まるで生きているようだったが、着物に隠された胸から下の部分は張りぼてらしく、おまけに下半身がなかった。


「美女には違いねえが、顔が舞袖とはぜんぜん違ってらあ」


 右近も興味深げに腰を落とし、十手の先で人形を突いた。


「生人形の題材は三国志なので唐人風ですが、薄暗ければ髪型や衣装で舞袖と錯覚したやもしれませぬ」


「人形が着ている小袖は舞袖花魁の物に違{ちげ}えありやせん。お甲さん、いや甲が花魁の遺品からくすねたのでしょう」


 辻平もしたり顔で口を挟んだ。


「ともかくわたくしは、お甲どのを探しに参ります」


 右近を残して倉田屋を跡にした。





 廓内をあちこち探しまわったがお甲の姿は見つからなかった。


 苛立ちだけが募り、いつのまにか夜の底がほの白くなっていた。



「静馬さま、いねえはずですぜ」


 息を切らせた千八が声を掛けてきた。


「会所の番人に大門切手を見せて、何食わねえ顔で廓の外に出たそうでやす。番人も騒ぎを知っておりやしたが、まさか甲が関わっていたたあ思わねえから、鉄五郎から『かかりつけの医者を呼びに行け』と言われたってえ言葉を真に受けたそうですぜ。怪我の痛みをこらえて一芝居打ったのでしょうな。じゃあ、あっしはこれで」


 千八は右近がまだ調べを続けている倉田屋へと歩み去った。




 大門は閉じられている。大門脇の潜り戸から廓外に出た。


「なぜ帰って来なかったのですか」


 大門の外には仁王立ちしたお熊の姿があった。


 墨伝までいる。


 町木戸が開くと同時に駆けつけたにしては、いやに早過ぎた。


「まさか本所から舟を仕立てて来られたのではないでしょうね」


「そ、そのようなこと、どうでもよいではありませぬか」


 宙を泳いだお熊の目が図星だと語っていた。



 今日明日の食い扶持にも事欠くのに、舟賃をどう工面したのかと尋ねたかったが、


(墨伝め、へそくりを隠しておるな)

 と気づいた。


 ともあれ内輪もめしている場合ではなかった。


「お甲さんが重傷を負って逃げています。早く探し出して助けねばなりませぬ」


「分かりました。静馬どの」


 お熊は大人びた目つきになって唇をきっと引き結んだ。


「よし、わしは西方の田地を探すゆえ、お熊は静馬を連れて東を見て参れ。静馬、くれぐれもお熊とともに行動するのじゃぞ」


 墨伝の指図で、お熊とともに広々とした吉原田圃の東側を駆けずり回ることになった。




 一面の田畑とはいえ、ぽつりぽつりと人家や小屋、木々に包まれた祠などが点在しているため、存外、手間がかかった。


 時ばかりが過ぎていく。


「あれはもしやお甲さんではありませぬか」


 古びた地蔵堂の陰でぼろ布のようにうずくまったお甲を発見した。


 近づいて確かめると、着物の上からでも、深手、浅手を合わせて多数の傷が見えた。


「お甲さん、しっかりしてください」


 お甲の細い身体を抱き起こした。


「気を確かに。医者を呼んできます」


 口で励ましたものの、とうてい助かりそうもなかった。


 息は浅く、顔色はなく、全身から力が抜け切っていた。


「あ、あんたは……?」


 乾いた唇から吐息のような細い声が漏れ出た。


「文次郎さんと恋仲だったおさちさんの知り合いです。おさちさんから文次郎さんを探して欲しいと頼まれました」


 安堵させるよう、誠実さを感じさせる笑みを向けた。


 次いで、

「文次郎さんがお袖さんの実の兄で、生人形を使って倉田屋を脅していたことも知っています」


 何もかも包み込む胎内の海のごとき笑顔を放った。


「最初は嫌がらせのつもりだったのさ。箪笥に人形を入れたのもあたし。女将さんが死んじまったのにゃ驚いたけど、それも天罰かと小気味良かったんだ」


 お甲は唇を震わせながらも、何度か大きく息を吸い込み、


「けどさ、一番の悪党は、善人の皮をかぶって皆をだましていた鉄五郎だったんだ」


 切れ切れに事情を話し始めた。





 ある日、倉田屋に目つきの鋭い男たちが訪ねてきた。


 鉄五郎に呼ばれてやってきた破落戸や素行の良くない渡り中間たちだった。


 鉄五郎は男たちに金子を与えて、見世まで何度も押しかけてくる文次郎を脅せと命じた。


 たまたま立ち聞きしたお甲は、鉄五郎と男たちとのやりとりから、《舞袖が身請け話を承知しないため、邪魔な佐助を自死に見せかけて殺害した。真相を知った舞袖が鉄五郎を刺そうとしたため逆に刺し殺して自害に見せかけた》と知った。


 鉄五郎は思慮が足りないお滝を言葉巧みに操ってあくどい真似をさせ、己は気弱で慈悲深い楼主で通していたのだった。


 お甲から真相を聞かされた文次郎は、亡霊騒ぎに乗じて鉄五郎を襲う計画を企て、お甲も手助けする決心をした、という。



「これですべてつながりました。この上は右近どのに報告して鉄五郎らに公正なお裁きが下るように……」


 言いかけた言葉を遮ってお熊が、


「お甲さん、わたくしたちが必ずや、あなたがたの仇を討ってみせます!」


 あろうことか無茶な約束をしてしまった。


「ほ、ほんとうかい。うれ、し」


 お甲の言葉は途中までしか聞き取れなかった。


「お甲さん! 死ぬな!」


 呼び掛けても彼岸に旅立った者にはむなしかった。


 お甲の身体を草むらにそっと寝かせて両手を合わせた。


 死に顔はなぜか笹百合の花を思い起こさせた。



 広い田圃を風が吹き渡って頬のほてりを冷やした。


 しばしの後……。


 静かに立ち上がった静馬はお熊のほうに向きなおった。


「お熊どの、何故、仇討ちなど約束されたのですか。いったいどうやって仇討ちをするのです」


「決まっております。この手で鉄五郎や雲詔を成敗するのです」


 きっぱりと言い切ったお熊の目は丸くてつぶらな子狸の目ではなかった。


 目尻が上がった鋭い眼差しが静馬を射すくめた。


「そんな無茶な。悪人だからといって勝手に成敗などできませぬ」


 説得しようとする静馬に、


「わたくしはお甲どのに約束いたしました。武士に二言はありませぬ」


 お熊は涼しい顔で、ちんまりとした鼻をうごめかせた。


「またも《武士に二言》ですか。お言葉ですが、お熊どのは武士ではありませぬ。お熊どのに甘い墨伝先生は納得されても、このわたくしは承伏しかねます」


 ここは譲れない。


 お熊を危険にさらせないし、人斬りにもしたくない。


 いつになく強い言葉が口をついて出た。


「何を申すか。この身は女に生まれようと心は武士。いえ、剣客です。約束を違えることなどできませぬ」


 お熊は言い張った。


「ならぬものはなりませぬ」


 さらに説得を試みようとしたとき、


「お甲が見つかったのか」


 右近が千八を引き連れて近づいてきた。


 墨伝はまだ広い吉原田圃を探し回っている最中らしく、姿が見えぬままである。


「おいおい、痴話喧嘩か?」


 右近が冷やかした。


「いえ、何でもありませぬ。遺体を見て気が高ぶっておっただけです」


 お熊は黒目がちな丸い目に戻って、子供っぽい笑みを浮かべた。





「実は……」


 遺体を検め始めた右近に、お甲から聞かされた真相を告げた。


「舞袖と佐助の殺害をどう証せばよいのか。生き証人の甲は死んでおる」


 眉間に皺を寄せて腕組みする右近は、急に老け込んだようにみえた。


「吉原全体の信用に関わりますゆえ、廓の者たちはこぞって〝火消し〟に動くでしょう」


 お熊も大人っぽい表情になって、うがった見立てを披露した。



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