翌日の午前10時ちょうどにすみれはドアフォンを鳴らした。
1分前でも1分後でもなく、まるで時報のようにピンポーンと鳴った。
僕は玄関を開けた。
「おはよう、カナタ」
「おはよう、すみれ」
僕たちはあいさつを交わした。
すみれは淡いグリーンのオフショルダーニットを着て、白いミニフレアスカートを穿いていた。唇がいつもより赤い。軽く化粧をしているみたいだ。
肩が見えている彼女は、ふだんよりおしゃれで大人っぽかった。
僕たちは電車に乗って大きな商店街のあるターミナル駅まで移動し、カラオケボックスに入った。
すみれがカウンターへ行って、受付を済ませてくれた。
ドリンクバーでソフトドリンクを選び、個室に入る。
こじんまりとした部屋の中にはカラオケ機器とテーブルとふたつのソファがあった。
僕がソファに座ると、すみれは対面には行かず、僕の隣にぴとっと腰掛けた。
「なにを歌う? アニソン?」
「そうだね。僕が歌える曲って、アニメのオープニングかエンディングくらいだからね」
「好きな曲を入れなよ」
すみれは僕の前にタッチパネル式のリモコンを置いた。
僕は歌があまり得意ではない。
「すみれが先に歌ってよ」
「いいの?」
すみれは歌が上手だ。
にこりと笑って、リモコンに触れる。
「なにを歌おうかな。リクエストはある?」
「もしよかったら、ガールズバンドドリームの曲を聴かせてほしいな」
ガールズバンドドリーム、略称ガルドリはガールズバンドもののアニメだ。
主人公の女の子が加入したバンドが成功する過程を感動的に描いて、大ヒットした。
アニメは3期まで制作されていて、劇中歌が多数ある。
すみれはすばやくリモコンを操作した。
彼女がマイクを握って立ちあがる。前奏が流れ始めた。
ほれぼれするような声で、すみれは歌った。
高音を軽々と伸ばし、むずかしい早口の歌詞を滑舌よく発声する。
可愛いすみれが完璧に歌っていると、まるでアニメのキャラクターそのものみたいに見えた。
僕は聴き入り、手拍子をした。
「上手いね! すみれの歌は最高だよ」
「そう? ありがとう」
歌い終わったすみれは僕の横にぴたっと座って、「カナタも歌ってよ」と言った。
距離が近いなと思ったけれど、彼女がにこにこしているので、僕はなにも言えなかった。
僕はロボットアニメ、フューチャーエデンのオープニングを歌った。
音程をあちこちではずして、ひどい出来だったけれど、すみれはぱちぱちと拍手してくれた。
「ひーっ、だめだ。全然歌えてないよ」
「そんなに悪くないよ。あたしはカナタの声、好きだよ」
すみれは僕の肩を軽く叩き、励ましてくれた。
彼女はリモコンを持って、選曲を始めた。
僕はコーラを飲みながら、すみれの美しい横顔と首筋、肩のラインを眺めた。
彼女のコップには人工的な緑色のメロンソーダが入っている。
「僕はどちらかと言うと、すみれの歌を聴いていたいな。ヒトカラのつもりでどんどん歌ってよ」
「歌うのは好きだからかまわないけど、カナタもときどきは歌ってね」
すみれの歌を聴いているのは好きだった。
中学時代、僕と彼女は何度もこの店に来て、ふたりで何時間も歌ったものだった。
すみれはたっぷりと歌い、僕はたまに下手な歌を披露した。
僕は音痴だが、彼女に聴かれる分には恥ずかしくなかった。
歌い終わると必ず拍手してくれた。ときにはぷっと吹き出したが、彼女に笑われても気にならなかった。
すみれはガルドリの曲を次々と歌ってくれた。
ようこそドリーマーを歌い、学園フェスティバルロックをシャウトし、七夕レインを熱唱した。
僕はフューチャーエデンのエンディングを歌った。自分でも嫌になるほど下手だった。
すみれがアイドルプロデュースの曲を歌った。
アイドルプロデュースは多数の女性アイドルが登場するアニメで、略称はアイプロ。
たくさんのキャラクターソングがある。
すみれが歌うアイプロの曲を、僕はタンバリンを鳴らしながら聴いた。
彼女はラブソングを歌いあげていた。
「好きよカナタ~、大好きなの、心の底から愛してる♩」
「好きよカナタ~、大好きなの、海より深く愛してる♩」
歌詞が変えられていることに気づいて、僕は打楽器を鳴らすのをやめた。
「カナタ好きよカナタ~、離さないで、いつも一緒にいて♪」
「カナタ好きよカナタ~、抱きしめて、つよく私を抱いて♪」
すみれは歌いながら、潤んだ瞳で僕を見つめていた。
曲が終わると彼女は僕を抱きしめて、頬にそっとキスをした。
「すみれ、僕には綿丘さんが……」
「なにも言わないで」
すみれはきっぱりした口調で言い、しばらくの間僕を放そうとしなかった。
「高校生カップルは長つづきしない」と彼女は疑う余地のない数学の定理のように告げた。
「カナタはあの巨乳とつきあっていい。好きなだけつきあってみればいい。ルックスに惹かれて結びついたカップルは遠からず別れる。必ず破綻する。あたしとカナタには、小学1年生のときからずっと仲よくしていた実績がある。あたしとカナタはまちがいなく相性がいいの。あたしはいつまでも待てる」
すみれは僕の耳に流し込むようにささやいて、僕から離れた。
そして部屋の壁に設置されている電話を使って、ピザとポテトを注文した。
その後、僕たちはなにごともなかったかのようにカラオケをつづけた。
すみれは声がかすれるまで歌った。
「楽しかったね。またカラオケしようね」
帰りの電車の中で、すみれは僕にぴったりと寄り添って、かすれ声で言った。
僕はなにも答えなかった。