空で稲妻が光り、雷がゴロゴロと鳴った。
青空が急速に陰り、白い霧が辺りを覆った。
「ここにいたら危ないわ。下山しよう」と綿丘さんは言った。
僕たちは地面に置いていたリュックサックを背負い、山道を下った。
下り道で綿丘さんはあまりしゃべらず、先を急いだ。
僕も自然と口が重くなって、黙々と足を動かした。
雨が降り出して、樹々の葉を濡らした。
歩きながら、僕は綿丘さんのことを考えた。
ものすごい美人で、稀有な巨乳の持ち主。
男子生徒の注目のまとで、はっきり言って、僕なんかではまったく釣り合っていない。
それでも彼女は僕のことを好きだと言う。
僕のいちばんの女の子になりたいと言う。
心もカラダも捧げる……なんて言う。
綿丘さんは肉感的な女の子だ。
官能的と言ってもいい。
ピンクのウインドブレーカーの下で揺れる胸。
茶色のハーフパンツを盛りあげるぷりっとしたお尻。
男子高校生に対してそれがどれほどの威力を持っているか、彼女は自覚しているのだろうか。
悪魔が僕にささやく。
ここは山の中の曲がりくねった細い道だ。
おまえと綿丘きらりしかいない。
いますぐあの女を抱きしめて、おまえのものにしてしまえ。
抵抗なんてしやしないさ。
自分からカラダを捧げるって言ってるじゃないか。
天使は僕に自重を求める。
きみは草原すみれの気持ちをよく考えてみるべきだ。
すみれは大切な友達じゃないのか。
長い間そばにいて、きみを支えてくれた。
巨乳に惑わされ、性欲に溺れたら、あの子はきっと悲しむだろう。
きみにとって誰がいちばん大切なのか、いま一度考えてみるべきじゃないのか。
僕は臆病者だ。
悪魔のささやきに身をゆだねて、綿丘さんを襲うなんてできない。
清らかな天使の心を持っているというわけでもない。
性欲に身を焼かれながらも、行動に移す勇気はなくて、我慢しているだけなのだ。
いっそのこと肉食獣のような男になって、なにも考えずに綿丘さんを地面に押し倒すことができればいいのにと思う。
でも実際の僕は、怖がりの羊のような心しか持っていないのだ。
僕は惑いながら足を動かしていた。
ざくざくと歩いていた綿丘さんが急に止まって、僕の方を向いた。
「明るくなってきたね」
彼女はそう言って微笑んだ。
「雨が降っていたのは山の上の方だけだったみたい。もう安全よ」
いつの間にか道は平らになって、雨はあがっていた。
僕は肉欲について思い悩んでいたが、彼女は危険な雷雨から逃れることに考えを集中していたようだ。
僕は自分を恥じた。
土の道が砂利道に変わり、やがてアスファルトの舗装道になった。
さらに歩いていくと、私鉄の駅舎が見えてきた。
「ハイキングは終わりよ。楽しかった?」
「楽しかった。連れてきてくれてありがとう、綿丘さん」
「今日は低山をふたつ縦走したわ。もしよかったら、今度はもっと高い山に登らない?」
行きたい、と僕は答えた。
綿丘さんとまた山デートがしたかった。
計画しておくわね、と彼女は言った。
電車に乗り込んで、僕たちはたわいもない話をした。
とんこつラーメンの麺の硬さにはハリガネの上に粉落としや湯気通しというのがあって、怖くて注文したことがないだとか、担任の花園先生の泣きぼくろが色っぽいとクラスの男子が騒いでいたとか、そういう話だ。
綿丘さんが主に話して、僕は聞き役に回っていた。
家に帰り着くと、すみれがリビングにいて、お父さんと将棋を指していた。
「おかえり」とすみれは言った。
「ただいま」と僕は答えた。
階段を上って2階へ行き、僕の部屋に入って、ベッドに倒れ込んだ。
初めての登山をして、僕は疲れ切っていた。
しばらくして、部屋の扉をノックする音がした。
「入っていい?」
すみれの声だった。
「どうぞ」と答えると、彼女はすっと中に入ってきて、静かにドアを閉めた。
「山に登ってたんだって?」
「そうだよ」
「誰と行ったの?」
「綿丘さん」
「やっぱりあの巨乳と行ったのね」
すみれはちっと舌打ちした。
「ねえ、あたしとも遊んでよ」
すみれは僕が寝転んでいるベッドの縁に腰を掛けた。
「…………」
僕はすぐには答えずに、綿丘さんの今日の言葉について考えた。
きみの特別な女の子はひとりでなければならない。わたしを取るか、あの子を取るか、きみはどちらかを選ばなければならないの。
恋人と親友、どちらも大切にしてつきあいつづける。もしきみがそんな選択をしたら、ふたりとも傷つくんだよ。わたしはまちがいなく気にしつづけるし、彼女だってきっと耐えられないと思う。
彼女はそう言った。
僕はどうすればよいのだろう?
「すみれ、僕は綿丘さんとつきあっているんだ」
「うん、そうだね。嫌だけど、そのことはもう認めるよ。カナタはあの巨乳の恋人。それでいいよ。でもあたしは友達だよね?」
友達じゃないとは言えなかった。
すみれは大切な親友なのだ。
それを否定することはできなかった。
僕はうなずいた。
「じゃあ遊ぼうよ。明日も休日だし、どこかに行って遊ぼう」
「すみれとデートするわけにはいかない」
「デートじゃないって。ちょっと友達として遊ぶだけ。そうだ、カラオケとかどう?」
「ふたりでカラオケに行くのはデートだと思う」
「なんで? 中学のときは一緒にカラオケに行ったじゃん。別にデートとかじゃなかったよね。あれと同じだよ。友達として遊びに行くだけ」
すみれは泣きそうな顔になって、真剣に僕を見つめていた。
僕が黙っていると、彼女の頬を涙が伝った。
「カナタとカラオケにも行けないの?」
僕は肯定も否定もしなかった。
なんて言えばいいのかわからなかった。
口を半開きにしたまま固まった。
「いいよね? カラオケくらいいいよね? あたしとカナタは友達だもんね」
すみれは泣きながらにこっと笑った。
その顔を見ていると切なくなって、だめだとは言えなかった。
「明日10時に迎えに来るからね。カラオケボックスに行って、いっぱい歌おうね。ドリンクバーでコーラとメロンソーダを飲もう。お昼ごはんはピザがいいな。アニソン歌っていいよ。たくさんアニソン歌ってよ」