山頂の標高は375メートルだった。
ベンチがいくつかあって、僕たちは空いているところに腰を掛けた。
そこは針葉樹林に囲まれていて、残念ながら眺望はほとんどなかった。
数人の年配の登山者たちがアウトドア用のガスバーナーでお湯を沸かし、カップラーメンを食べている。
「山の上で食べるカップ麺は美味しそうだね」
「確かに熱いラーメンは格別だろうね。でも自然の中で食べるとなんでも美味しいよ。登山はお腹が空くしね」
僕たちは持ってきたごはんを食べることにした。
僕はコンビニで明太子とツナマヨと梅干しのおにぎりを買ってきていた。
綿丘さんはお弁当箱の中にサンドイッチを詰めていた。
「よかったらどうぞ。ハムと卵とレタスのサンドイッチ。わたしが早起きしてつくったんだよ」
「綿丘さんの手づくり? すごい!」
僕はサンドイッチをひとつもらった。
汗をかいた身体にハムの塩気が染み渡るようだった。レタスは新鮮でしゃきっとしていた。
「ん~っ、最高だよ!」
お世辞ではなく、山頂で食べるサンドイッチはなにものにもかえがたいほど美味しかった。
綿丘さんは紙コップを僕に渡して、ポットから熱いコーヒーを注いでくれた。
「山はいいね」と僕は言った。
「山はいいよ」と綿丘さんも言った。
「いろんな話ができるしね。小鹿くんともっふーちゃんの話はとても可愛らしかった」
「もっふーは本当に可愛かったんだよ。それに人懐っこかった」
「わたしももっふーちゃんに会いたかったな。動物は好きなんだ」
綿丘さんはひときわ高い杉の木を見つめ、紙コップに口をつけた。
「ちょっと草原さんがうらやましくなっちゃった。わたしも小学1年生の小鹿くんと出会って、もっふーちゃんと遊びたかったな。きみの幼馴染になりたかった」
「僕の幼馴染になったって、あんまり楽しくないよ。僕はしょっちゅう風邪を引いていたし」
「かまわないよ。小鹿くんの看病をしたかった。きみのそばにいて、手を握ってあげたかった」
「すみれは僕を見守っていただけで、手を握ったりはしなかったよ」
彼女はゆっくりと首を左右に振って、僕の瞳をのぞき込んだ。
「わたしは手を握ってあげる。あたたかいお粥をつくってあげる。冷えピタを買ってきて、おでこに貼ってあげる」
「お母さんでもそこまではしないよ」
「わたしはする。小鹿くんになんでもしてあげたいの」
僕の肩に重みが乗った。
綿丘さんが両手で僕をしっかりとつかんだのだ。
その力は思いがけないほど強かった。
「わたしは小鹿くんの特別になりたい」
「綿丘さんは特別だよ。僕たちはつきあっているじゃないか」
彼女はまた首を振り、「きみの話を聞いて、草原さんに嫉妬した……」とつぶやいた。
「小鹿くんと草原さんには特別な絆がある。ふたりにはもっふーちゃんの思い出があり、長い間親しくしてきた時間の重みがある。草原さんともっふーちゃんのおかげで、きみは健康になった。草原さんはきみにとってふたりといない特別な人なんだ。そうでしょう?」
「それはそうかもしれない……」
「草原さんがうらやましい。妬ましいよ。わたしはたまたま小鹿くんの恋人になれたけれど、まだ全然特別になれている気がしない」
年配の登山者たちが食事を終えて、山頂から去っていった。
後には僕と綿丘さんだけが残された。
太陽が雲に隠れて、冷たい風がびゅうっと吹いた。
「ねえ小鹿くん、恋人と幼馴染、どちらが大切?」
綿丘さんは立ちあがって、僕の肩を強く握っていた。
僕は彼女に押さえられて、ベンチに座ったままだった。
彼女の問いには答えられなかった。
恋人と幼馴染、どちらが大切か?
綿丘さんとすみれ、どっちの方が大切なのか?
どちらも大切だ。
でも彼女が求めている答えは、そんな当たり障りのないものではないだろう。
恋人の方が大切だよと即答できればよかったのだが、僕にはできなかった。
「小鹿くんを好きな女の子が、ふたりともしあわせになることはない。前にそう言ったよね」
憶えている。
高校の屋上で綿丘さんとすみれが言い争いをした後で、綿丘さんが僕に伝えた言葉だ。
「わたしを恋人として大切にして、あの子のことは親友として大切にしようとか思ってない?」
綿丘さんはえぐるほど深く僕の目を見つめていた。
言われてみて、そのとおりだと気づいた。僕は綿丘さんとすみれをふたりとも大切にしたいと思っている。
綿丘さんとは恋人としてつきあい、もっと深い仲になりたい。
すみれとは長いつきあいの幼馴染としていままでと変わらぬ関係を持ちつづけ、ずっと友達でいたい。
そんなふうに思っている。
それは悪いことなのだろうか?
「草原さんがきみの単なる幼い頃からの知り合いだったら、どうでもよかった。わたしは気にしないで済んだ。でもどうやら彼女は、小鹿くんにとってかけがいのないほど大切な人みたいだね」
僕がいま生きているのは、すみれのおかげだ。
すみれがいつも変わらずに僕の友達でいてくれて、もっふーが死んだ後も支えてくれたから、僕は生き残っている。
「きみの特別な女の子はひとりでなければならない。わたしを取るか、あの子を取るか、きみはどちらかを選ばなければならないの」
綿丘さんは僕をぎゅっと抱きしめ、その大きな胸を僕の身体に押しつけた。
その瞬間、僕の頭はとろけて、なにも考えられなくなった。
遠雷が鳴っていた。
「わたしは恋人で、草原さんは親友。どちらも大切にしてつきあいつづける。もし小鹿くんがそんな選択をしたら、ふたりとも傷つくんだよ? わたしはまちがいなく草原さんを気にしつづけるし、彼女だってきっと耐えられないと思う。あの子はカナタが好きってはっきりと言った。草原さんはきみと彼氏彼女の関係になることを望んでいるのよ」
そのことは考えないようにしていた。
僕はすみれと決定的な亀裂ができるのを避けて、なあなあにして、いままでどおりの関係をつづけようとしていた。
「わたしは小鹿くんのいちばんの女の子になりたい。2番でしかないのなら、きみのそばにはいたくない。もし小鹿くんが心の底から愛してくれたら、わたしはすべてを捧げるわ。どういう意味かわかるでしょう? わたしの心もカラダもすべて、きみに捧げる。でももしきみが、わたしと草原さんの両方を得ようとしたら、わたしはきっと傷ついて、きみの前から去ると思う。不完全な愛ならわたしはいらない」
ぴかっと空が光った。
雷が近づいているようだった。