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第16話 すみれともっふー

「すみれのこと……」


 すみれは僕の大切な幼馴染で親友だ。

 彼女のことを想うと、僕の心はあたたかくなる。

 彼女のおかげで僕は小学生時代を生き延びることができたのだ。


「すみれは大切な幼馴染なんだ」

 僕は山道を歩きながら話し始めた。

「すみれと僕の話をすると、とても長くなるかもしれない。それでもいいかな?」

「いいよ。ここは山の中で、まだ先は長くて、たっぷりと時間がある。小鹿くんと草原さんの話を聞きたい」

 綿丘さんは真剣な顔を僕に向けた。

 本当にすみれのことを聞きたがっているみたいだ。


「僕は小さな子供の頃、とても身体が弱かったんだ。しょっちゅう高い熱を出したり、ひどい咳をしたりした。激しい嘔吐をすることもあった。だから保育所にも幼稚園にも行かず、ずっと家に籠もっていた。お母さんが僕の看病をして、病院に連れていってくれた」

「小鹿くんはいまは丈夫そうに見えるけど」

「もう完全に健康体だよ」

「運動も好きなんでしょう?」

「そうだよ。中学に入る頃にはすっかり健康になっていた。もう病弱にはなりたくないと思って、身体を鍛え始めた。いまでは毎日ランニングや筋トレをしている。反動みたいなものだね」


 山道は曲がりくねりながらつづいていた。

 僕には現在地がどこなのかまったくわからなかったが、綿丘さんが道を知っているだろうと思って、安心して任せていた。


「小学校に入ってからも、僕はよく熱を出した。別に大病を患っていたわけじゃない。とにかく身体が弱くて、すぐに風邪を引いたり、お腹を壊したりしてしまうんだ。学校に行ける日と休む日は半々くらいだった。そんな状態だったから、僕には友達はひとりもいなかった。僕はひとりっ子で兄弟もいなかった」 


 あの頃のことを思い出すと、僕は辛くなる。

 楽しいことなんてなにもなくて、身体はいつも怠くてどこかが痛かった。ときどきこの世から消えてしまいたいと思った。


「そんなある日、お父さんが子犬を抱いて家に帰ってきたんだ。小さなゴールデンレトリバーだった。すごく可愛くて、ころころしている生き物で、そんなのが突然うちにやってきたから、僕はびっくりした。お父さんの知り合いが飼っているゴールデンレトリバーが5匹の子犬を生んだ。そのうちの1匹をもらってきたんだ。カナタ、この子に名前をつけてやってくれとお父さんは言った。小学1年生の初夏のことだった」


「なんて名づけたの?」

「もっふー」

「もっふー?」

「もふもふしてるからもっふー」

 綿丘さんはくすっと笑った。

「笑わないでよ。こんな名前でも、僕はずいぶん考えたんだよ。もちぞうとか、きんときとか、はるかとか……。1週間くらい悩んだ。いちばんいいと思ったのがもっふーだった」


 もっふーは僕の最初にできた友達だった。

 もっふーは僕の生活に彩りをくれた。


「庭でもっふーと遊んでいるときが、あの頃の僕には最高の時間だった。僕はもっふーを抱きしめ、もっふーと芝生の上を転がり、もっふーのためにゴムボールを投げた。もっふーはボールをくわえて僕のところに戻ってきた」

「しあわせそう」 

「そうなんだ。もっふーは僕にしあわせを教えてくれた。その上、僕にもうひとりの友達をつくってくれたんだ。僕ともっふーが庭で遊んでいるのを垣根越しにじっと見つめている女の子がいた。その子は犬が好きみたいだった。いつの間にか、僕ともっふーとその子は一緒に遊ぶようになっていた。あまりにも自然に仲よくなったから、いつからだったのか、はっきりとは憶えていない。遅くとも小1の冬には、僕ともっふーとその子は完全に友達になっていた」

「それが……」

「それがすみれだよ。長い間、僕の友達はすみれともっふーだけだった。でもその頃の僕にはそれだけで充分だった。ふたりと遊んでいれば、最高にハッピーだった。僕が熱を出して寝込むと、すみれともっふーは僕を心配そうに見つめてくれた。ふたりを見つめ返しながら、僕は早くよくなって遊びたいと思ったものだった」


 もっふーとすみれがそばにいてくれるようになって、僕は死にたいとは思わなくなった。


「すみれともっふーと遊ぶようになって、僕はしだいに健康になっていった。最初は庭でばかり遊んでいたんだけど、だんだんと行動範囲が広くなった。近所の公園へ行き、神社へ行き、河原へも行った。僕たちは川の下流の方へ歩いたり、上流へ向かって探検したりした。僕とすみれともっふーは親友だったと思う」


 綿丘さんは熱心に僕の話に耳を傾けてくれた。

 辺りはいつの間にか広葉樹林になって、木漏れ日が僕と彼女を照らしていた。

 新緑が萌えていた。


「小4になった頃には、僕はかなり丈夫になって、あまり寝込んだりはしないようになっていた。でももっふーの身体が弱ってきたんだ。食欲が落ちて、元気がなくなった。遠くへ歩いていけなくなった。庭で遊ぶのもしんどそうだった。僕とお父さんはもっふーを動物病院に連れていった。悪性のリンパ腫と診断された。要するに癌だったんだよ」


 僕と綿丘さんは新緑の尾根を歩いていた。

 鳥が鳴いていたが、いくら目を凝らしてみても、その姿を見つけることはできなかった。


「治療したけれど、もっふーは治らなかった。亡くなったときのことをよく憶えているよ。僕は部屋の中でもっふーを抱きしめていた。そばにはすみれがいた。もっふーは力をなくしてもうほとんど鳴かなくなっていたんだけど、最後に僕を見つめてうおぉぉーんと長く鳴いた。それがもっふーの最後の声だった。鳴き終えたとき、僕とすみれの親友はもう息をしていなかった」


 もっふーのことを考えると、愛しくて悲しくて、涙が出そうになる。


「僕とすみれは泣いたよ。もっふーが死んで、僕の友達はすみれひとりになってしまった。でもすみれがいてくれてまだよかったと思う。少なくとも僕はひとりきりではなかった。悲しみをすみれとわかちあうことができた。もっふーがいなくなっても、すみれは僕の近くにいて、一緒に散歩をしたり、語り合ったりしてくれた」


 僕はもっふーの後を追って天国へ行きたいとすら思った。

 この世に残ったのは、そこにすみれがいたからだ。

 だから僕が生き残っているのは、すみれのおかげなのだ。


「草原さんは、小鹿くんにとって、相当に大事な人なんだね」

「そうだね。すみれは大切な幼馴染だよ」


 綿丘さんはなにかを考え込むような表情になった。

 ふたつめの山の頂上に到着した。

「休憩しよう」と彼女は言った。

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