AM 11:45
クルーザーのエンジンを止める
トシキ「もう到着したんですか?」
塩沢「いいえ!ここでお昼休憩を取りましょう!昼食を用意しましたので、ぜひお楽しみください!」
塩沢は船室にある小型の冷蔵庫を開ける。中から銀色の平らな皿を取り出し、中央のテーブルの上に置いていく。シゲミたち4人それぞれに配られた皿には、透明なゼリー状のような物体が乗っている。
サエ「あの〜、これ何ですか〜?」
塩沢「クラゲの水煮ですぅ!」
お皿を並び終えた塩沢は、フォークを配る。料理の見た目の悪さに沈黙する4人。
塩沢「今回のクルーズ、学生割引により最安値で提供していますぅ。クルーザーの燃料代や料理の手間などを考えると、用意できるお昼ご飯はクラゲの水煮が限界でしてねぇ!」
サエ「出発前は儲けなんて出なくていいって言ってたのに〜!」
塩沢「赤字になってもいいとは言っておりませんよぉ!」
シゲミ「何という種類のクラゲですか?」
塩沢「図鑑で調べたのですが、わかりませんでしたぁ」
カズヒロがフォークでクラゲの一部を抉り、口に運んで咀嚼する。
カズヒロ「……味がほとんどしない。食感はあるけど、食べても食べなくても一緒というか、実体がないというか……しかもなんか、口の中がピリピリするような」
サエ「私、お腹空いてないから食べなくていいや。トシキにあげるよ〜」
トシキ「えっ!?」
カズヒロ「俺のもやるよー。トシキってたしか味はどうでもいいからとにかく大量に食べたいタイプの大食漢だったよなー?腹減ってるだろ?」
トシキ「いやちょっと」
シゲミ「私の殺し屋としての勘が、このクラゲは食べないほうがいいと言ってる。私のもトシキくんにあげるわ」
トシキ「なんで僕に!?」
塩沢「はっはっはっ!譲り合いの精神!素晴らしいですなぁ!皆さんのような若者が今後の日本を支えていくのなら、未来は明るい!」
塩沢は自分の分の昼食を冷蔵庫から取り出し、テーブルの上に置く。白いトレーの上に皿が3つとマグカップが1つ。それぞれの皿にはライス、ローストビーフ、サラダが乗っており、マグカップにはコーンスープが入っている。
トシキ「塩沢さんのだけ豪華!!」
塩沢「私のランチは自分のお金で買ったものですからぁ!それに私だって我慢してるんですよぉ!コーンスープが冷たいですからねぇ!本当なら熱々のスープを飲みたかったぁ!」
シゲミたちは眉間にしわを寄せ、黙ったまま塩沢に視線を注ぐ。4人の無言の圧力を物ともせず、塩沢は笑顔でランチを食べ始めた。
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PM 12:32
塩沢が運転するクルーザーが再び停止した。つい数分前まで快晴だったが、気がつけば辺りは霧に覆われている。霧はどんどん濃くなり、クルーザーから1m先さえ見えなくなった。うろたえる塩沢。
塩沢「なんですかこれぇ……いつもはこんな霧出ていないのにぃ……」
船内で椅子に座るシゲミたちも異変を感じ取る。
カズヒロ「なんかヤバそうじゃねー?」
トシキ「まさか『インフェルノ・ブルー』に……?でも塩沢さんは海域には入らないって言ってたよね?」
サエ「じゃあ何なのこの霧〜!?」
シゲミ「みんな動かないで。イヤな予感がするの」
塩沢「大丈夫……方向はわかってる……皆さ〜ん!残念ながら今回は引き返しまぁす!この霧の中を進むのは危険だと判断しましたぁ!」
カズヒロ「たしかに、遭難したら洒落にならないぜー」
トシキ「僕らも亡霊になっちゃうよ」
塩沢はクルーザーのエンジンかけると、船体を180度回転させ、発進させる。霧の中を20分ほど進むが、一向に青空を拝むことができない。先の見えない濃霧が続く。
塩沢「変ですねぇ……何かがおかしいですよぉ……」
サエ「マジヤバくな〜い!?」
トシキ「もしかして『インフェルノ・ブルー』の海域が広がっていて、僕たちはすでに足を踏み入れている……?」
塩沢はクルーザーのエンジンを止めると、シゲミたちの前を突っ切って船尾に出る。その目で霧に包まれた海を見回すと、シゲミたちのほうへ向き直った。
塩沢「皆さん、再び残念なお知らせです……私たちは完全に遭難しましたぁ!」
カズヒロ「遭難しましたって……どうするんすか!?」
塩沢「陸から離れ過ぎていてスマホが使えないので、船の無線機で海上保安庁に救助を要請しますぅ!大丈夫!絶対に助かりますよぉ!近くを通りかかった船に合図を送る照明弾もありますからぁ!現代社会じゃ海で遭難してもそう簡単に死ぬことはな」
塩沢の背後から首に両腕を回すように髪の長い女が現れた。全身びしょ濡れで衣服は着ていない。女は塩沢の首を絞め、海へと引きずり込んだ。シゲミが船尾へ駆け出し、船から身を乗り出す。塩沢の体は海中に落下し、一瞬で船上から見えなくなるほど深くまで引き込まれていった。
シゲミ「みんな奥へ!船の外には絶対に出ないで!」
シゲミの指示に従い船室の奥、操縦席のほうへ移動するカズヒロ、サエ、トシキ。シゲミは塩沢が落ちた海面に目を凝らす。海の闇の中から、裸の人間が何千人も浮上してくるのが見えた。様々な人種の男女が笑顔を浮かべながらクルーザーに向かって泳いでくる。
スカートの両ポケットに手を突っ込むシゲミ。手榴弾を1つずつ取り出すと、左右の親指でピンを抜き、海中へ放り投げた。船尾から水の柱が2つ噴き上がり、クルーザーが大きく揺らぐ。カズヒロたちは体勢を崩し、船内に座り込んだ。
シゲミは再び海中に視線を落とす。泳いで浮上してくる人間たちの勢いは全く衰えていない。
シゲミ「無駄か」
船尾から船室の操縦席へと走るシゲミ。カズヒロたちの脇を通り抜け、クルーザーのエンジンボタンを押し、ハンドルを握る。
カズヒロ「シゲミ、まさか」
シゲミ「逃げる。このままだと海の亡霊たちの餌食よ」
サエ「操縦できるの〜!?」
シゲミ「塩沢さんがやってるのを見てたから多分できる」
トシキ「免許は!?」
シゲミ「……やむなし」
シゲミはアクセルレバーを倒し、クルーザーを発進させた。