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ヒトならざる者

 恐怖の夜が明けて数日を経て、刹菜は再びあの溜め池を訪れた。仲間たちの死に様は今でも鮮明に瞼に焼き付いたままだったものの、ここまで行かずにはいられなかった。

 次の日も、その次の日も、そのまた次の日も、月の浮かぶ空の下で悲しみに打ちひしがれながら毎日のように池で精霊と話す例の歌を溜め池にて奏で続ける。本来ならば無感情で響かせなければならないその歌だったものの、悲哀の色をその響きに込めてしまう。

 あの日のことを思い出していた。薄緑の輝きを持つ儚い命たちが月の輝きさえ凍ってしまう寒空の下で生き生きと飛び回っていた日々、その全てを食いちぎったあの純粋な闇のことを。その正体は分からない。如何なる姿を持っているのかそれすら分からないものの、決して知りたいとも思えなかった。出来れば二度と会うこともなく永遠に悲しみを滲ませてそのままでいたい。こればかりはことが進むということが新たな苦しみを生むことしかないのだと分かり切っていた。

 歌声の中に恐怖の情が混ざり合う。あの闇は間違いなく刹菜にとっては脅威そのもの。突如現れたことは驚異で存在そのものは脅威。復讐する勇気すらないのであれば出会わないことが一番。それは分かっていた。

 もう決して戻ってくることのない精霊たち、その姿を。薄緑の輝きを薄っすらと放つあの日の幻影を想いながら心の中を打ち付ける荒波に身を任せてもう戻ってくることのない仲間たちと話すための魔法を、人という生き物には本来は意味が理解できない音を歌にしてただただ静寂の冬空で響かせ続けるだけだった。

 セカイへと流され続ける歌声は、夜のみなもに吸い込まれる音は落ち着きを取り戻し始めていた。心の荒波はさざ波へと抑えられ、波ひとつない静かな池の鏡面に同調を始めていた。

 そうして落ち着いた心持ちで歌い続けること十分は経過しただろうか、それとももっとずっと長い時間、厳しい寒さの中に身を晒し続けていただろうか。

 静寂を保ち続けていた闇を思わせる黒い鏡面、月明かりだけを映し出す曖昧な鏡が揺れ始めた。静寂の中に、平静の中に生まれた揺れが幾重にも重なり、大人しかった水に慌ただしい波を立て始める。やがて波を起こすモノが底から噴き出す泡たちなのだと、内側から静寂を脅かすモノがいるのだと刹菜は遅れながらに認識を得た。

 やがて池の中心より、何かが上がってきた。夜の色をした水とそうした空気の色ですら染め上げることの叶わない気泡や衝動の混ざった水の柱。

 刹菜は喜びを顔に表すも、それは時を待たずして凍り付いた。

 池より這い上がるそれはおおよそ人間という存在では受け入れることの出来ないような穢れの象徴の姿をしていた。腐敗したヒトの形を持った何か。身体は青白く、所々が黒ずんでいて体の一部には人類への冒涜を想わせる欠損が見受けられる。

 刹菜はこのため池で吸い込んでしまった二度目の恐怖に思考を揺らされる。以前は動くことさえ出来ないような大きくて重々しい恐怖感、今回のものは秒数を置くこともなく叫び散らして走り出してしまうような種のもの。


 恐怖にも色があるということを身を持って叩き込まれた瞬間だった。


 心臓を打ち付ける鼓動は加速していく。うるさくて心をも揺さぶるそれによって刹菜の心情は支配されて行った。血の流れは速く、吸う息は苦しく、警鐘を鳴らし続ける脳はとめどなく一色の感情を巡らせ続ける。体の隅々にまで行き渡る緊張は、心の中を余すことなく満たし続ける寒気は、吐き気を生み出しては刹那に刹菜の心地に悪質な布を掛ける。

 ため池はいつになく速く遠ざかって行くものの、ヒトならざるモノはゆっくりと不自由を引き摺りながら進むだけではあったものの、いつに日か追いつかれてしまいそうな、今にも捕らえられてしまいそうな、そんな不安を循環させて身体に浸透していく。

 刹菜の視界に入り込む異形の景色が新たな危機感を塗り付ける。木々の隙間からヒトのカタチを持つ者たちが、腐敗した死者たちがぞろぞろと現れる。後ろから、横から、次から次へと増えていく彼らを数える暇も度胸も無くただただ駆け抜けることしか出来なかった。

 脚が発する痛みも寒さによって奪われて中途半端にしか残されていない感覚による警告も悉く無視して命を捨てないように命をも捨て去る覚悟を決めて足を動かし続けてやがて森から抜け出して行く。

 息を切らしながら走り、森は遠ざかる様を確かめる余裕すら持たないまま止まることを知らずに走り続ける。苦しくて、冷たさと渇きによって肺は焼き付くような痛みを発していたものの、それでも足をとめずに走り続ける。

 危険な場所から逃げ出せたその後も恐怖は弱まることもなくひたすら心を煽り、足を止めるという簡単な行動も、少し休むという単純な思考すらも忘却の彼方へと追い出していた。

 慣れているはずの道、合っていることは確認するまでもなく分かっているはずなのにそれでも不安が胸の中で騒ぎ立てる帰り道を経て、ようやく見えた家のドア。その安全圏を前にして立ち尽くし膝に手を付いて首を垂れて闇に染められた地に目を向ける。吸っても吸っても身体が求める空気を充分に得られることなく、足りないことにもどかしさを感じていた。

 疲れが癒されるまで待つこともなくドアを開いて家へと身を滑り込ませて、部屋へと駆け込んだ。

 あの恐怖体験が再び脳裏を巡り、体を震わせながら縮み上がった心と同調しながら蹲る。体を縮め恐怖という感情の操り人形となって震えつづけ、まともに眠る事も出来なかった。

 刹菜はもう夜にあの森には行かない、あのため池には二度と足を運ぶことはない。そう誓った。

 あのような恐ろしい出来事もおぞましい存在も、もう一度たりとも見たくない、二度と会いたくない、そうひしひしと感じさせられていた。

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