三十年前の話だ。まだ僕が生まれる前。東ヨーロッパで発見された新型ウイルスが瞬く間に世界に広がり、パンデミックを引き起こした。
開発されたワクチンによってウイルスの流行は終息したものの、世界の人口は著しく減少した。
新型ウイルスがワクチンによって完全制圧され、もはや風邪と同じ定義だと世界中が認識し始めた頃に僕は生まれた。
そして、同じ時期に『あの病』も姿を現した。その性質から未だに正式な名称がつけられずにいる。
ある医学者は「これは精神疾患だ」と言った。「新型ウイルスの後遺症」なのだと言う研究者もいた。「ワクチンの副作用」ではないかと疑う人もいれば、「また新たなウイルスが発見された」と言う人もいた。
女性にだけ『あの病』は現れる。早ければ初潮を迎える頃からだ。
色情症に似た症状で、異性との性行為を強く望むようになる。場所も時間も構わず錯乱状態となる場合もあった。
色情症に酷似していることから、精神疾患説が生まれた。女性であれば必ず『あの病』になるわけでもない。
なぜなのか。これは何なのか。『あの病』と呼ばれるものの正体を、まだ誰も暴くことができずにいる。
◇
僕は大学で学位を取得した後、研究者になった。政府が設立した『あの病』を研究するための機関に配属されて二年になる。
「ホルモンの過剰分泌。複雑な相互作用による月経周期の乱れが原因。発情周期が……あ、えー、と……すみません」
小さな研究室。上司を相手に、過去に発表された論文を読んでいるところだった。「発情」という言葉は、現在ではあまり良しとされていない。
発情。発情期。『あの病』の性質上、性差別に繋がるというのが今の風潮だった。
目の前にいる上司は女性だ。その言葉に酷く神経質になる女性研究者もいる中、この白峰という上司は特に気にした様子もなく、それどころか表情一つ変えない。
「廣田さん。続けて下さい」
静かな声で僕に指図する。
「……はい」
上司の声はいつも冷たい。静かで、冷ややかで、抑揚のない声色をしている。そして常に冷めた目をしていた。
決して笑わない。それどころか表情を崩すことがない。
この上司は正真正銘の天才だ。飛び級で大学に進み学位を取得した僕自身でさえ、まるで歯が立たないと感じるくらいには。
「過去の論文を読んで、何か意味があるのでしょうか」
僕がこれまで読み上げたいくつかの論文。その中には、学術誌に掲載された後、間違いだったとして撤回されたものも含まれている。
「廣田さんに読んでもらった過去の論文には共通点があります。症状が見られた方の生育環境や、家庭環境、生活環境、人となりが録されているところです。私の中には今、一つの仮説があります。まだ、とても発表できる段階ではありませんが」
表情のない顔がこちらを向いている。そして冷めた瞳で僕を見ている。
「か、仮説って……。どんな……?」
僕は思わず前のめりになる。
「もう少し確信が持てたらお話しようと思っていたのですが」
そう上司は前置きしてから、僕に静かに語り始めた。
「発見されてから二十年以上を経てもなお『あの病』と呼ばれているものの正体についてです。廣田さんも、もちろん知っているはずですが、元々は大きく分けて四つの仮説が存在
していました。検査をしても病原体が見つからなかったことから、新たなウイルス説は、一番最初に否定されました。自身も両親もワクチンを投与されておらず、それでも症状が見られることから、ワクチンの副作用説も消えています。残ったのは二つ。新型ウイルスの後遺症説と精神疾患説です。かつての新型ウイルスは、命を落とすほどに重症化することがほとんどでしたが、まれに自覚症状が無い場合もありました。罹患すれば必ず細胞の一部が変化することが証明され、その結果、新型ウイルスの後遺症説も無くなりました」
他人事のように話をしているが、新型ウイルスの後遺症説を消したのは、この上司の研究結果だ。
症状の有無に関わらず、細胞の一部が変化することを証明したのは、上司がまだ15歳の時だった。
僕は、自分と同い年の人間が成し遂げた偉業に酷く打ちのめされた。
この人がいなければ、この人の存在を知らなければ、僕はずっと天才のままでいられた。
「ここからが仮説になります。最後に残った精神疾患説ですが、私はこれも間違いだと考えています。精神疾患というよりは、人間の感情が引き起こした『進化』だと思っています」
「病ではなく、進化……?」
「そうです。淋しいという感情から身を守るための『進化』です。症状が見られた方から話を聞いていると、症状が出る直前にある共通の強い感情を持ったことが分かりました」
『上京して家族とはなれたらホームシックになってしまって、毎日泣いていました』
『転勤したら周りは知らない人間ばかりで、私、ひとりぼっちだなって思って』
『たったひとりの妹を事故で亡くして、私はぬけがらのようになりました』
「進学のための上京、転勤による引っ越し、近しい人間の死。環境の変化や喪失等、理由は様々ですが、感情の種類はたったひとつです。淋しい、と。皆、そう思ったそうです」
感情というものに世界で一番、縁遠そうな上司が唱える仮説。
この仮説は正しいのだろうか。いつか発表できるようになるのだろうか。想像ができない。
感情の研究をするのか? どう証明すればいい?
「……新型ウイルスのせいで、世界の人口が著しく減少した。絶滅することを恐れた人類(女性)の身体が、より多くの子孫を残すために進化した。このほうがシンプルで分かりやすいのではないでしょうか」
女性の体に進化の形跡を見つけることが出来たら……。大発見だ。けれど、僕の意見に上司は小さく首を振る。
「一部の女性にのみ症状が現れることの説明がつきません。廣田さんは、私が、どうしてこの仮説にたどり着いたと思いますか?」
「……わかりません。でも、白峰さんらしくないと思います」
僕は正直に告げた。だって、どう考えてもこの上司らしくない。感情だとか。淋しさだとか。
「私にも感情はあります。表に出すことが他のひとより不得手なだけで。そのことを理解してくれる人がこの世にひとりだけいました。母です。子供の頃からずっと、私は母と二人で暮らしていました。その母が……先日、亡くなりました」
「え……」
「肉親であり、唯一の理解者でした」
上司は淡々と口にする。やはり僕にはこの人の感情が見えない。でも、自分で感情はあると言った。
ただ、それを表に出すのが苦手なだけで。そのことを理解してくれているひとはいて。
でも、その人を失ってしまって……。
「私は、ひとりになりました。そう気づいたとき、とても強い感情を知りました。そして、仮説に辿り着くに至ったのです」
近しい人間の死。喪失。ひとり。孤独。まさか……。
「淋しい、と、思ったんですか」
わずかに伏せる目線でそれを肯定する。
「この仮説はきっと正しい。今、それが確信に変わりました」
伏せられた視線が僕を捉える。冷たい目ではなかった。潤んだ艶めかしい瞳だ。
涙の膜がうすく瞳を覆っている。まばたきをする度、瞳がゆらりとゆれる。頬はわずかに赤みを帯びていた。こんな顔は知らない。
いつも生白く、生気のない顔しか僕は知らない。
これは『あの病』の症状だ。
淋しい、と。強く懇願されている気がする。
誰が信じるだろう。こんなにも強烈な感情をこの人が持っていたことを。
こんなにも淋しさを抱えていたことを。
ゆらゆらとゆれる瞳に吸い寄せられるように、僕は近づいた。頬の赤みが一層、増した。
錯乱状態になる者もいるというのに、『あの病』が現れてもこの人にはこれが精一杯なのだ。
そう思ったら、僕の中に強烈な感情が芽生えた。
欲しい、と。そう思った。
自分のものにしたい。自分だけのものにしたい。
僕の中にも、ひとつの仮説が生まれた。もしも『あの病』が呼応するものだとしたら。
現れる症状と抗えない衝動。仮説が正しければ、女性だけではなく男性の肉体も進化を遂げているはずだ。
感情によって症状は誘発される。症状が現れないだけで、既に全ての人類は進化しているのではないか。
どんなに小さくても、進化の形跡を必ず見つける。
この人なら、この人となら、きっと出来る。そんなことを考えながら、僕は目の前に人をゆっくりと、自分の腕の中に引き入れた。