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第15話 新しい名前

 夢のような日々だった、と美咲はあの頃のことをぼんやりと思う。


 とても目まぐるしい毎日だった。色んな大人達が美咲の周りにいた。


 スケジュールの管理を一任されていたマネージャー、撮影現場まで送迎してくれる運転手、事務所のスタッフ、それから社長。


 役柄に相応しい衣装を用意してくれたり、メイクを施してくれるひともいた。みんなが美咲に優しかった。


 美咲の名前は、だいたい三ヶ月に一度のペースで変わった。


「今度の役名はね、七瀬サツキ。意地悪な女の子だって」


 マネージャーから新しい台本を渡される瞬間が、美咲はとても好きだった。新しい名前を貰うということは、新しい命を貰うのと同じことだ。


 第一話と書かれた真っ新の台本。表紙をめくって顔に近づける。新しい紙のにおいがする。台本を一頁めくる度に、七瀬サツキという人間の輪郭が露わになっていく。


「サツキは、ほんとうはさびしいんだね」


 どんな役でも台本を読めば、その役の全てが手に取るように解った。考え方、話し方、笑い方、その人間の全てが理解できた。


 あっという間に一日が過ぎていった。小学校にも満足に通えないほど忙しかった。


 そんな日々が何年か続いた後、次第に美咲の日々は穏やかになっていった。毎日が静かに、ゆっくりと過ぎていく。


 中学生にあがった頃から、週の半分は学校に通えるようになり、高校生になると、もう新しい名前を貰えなくなった。


 二十歳を過ぎた現在の美咲の周りに、もう大人達の姿はない。





 今でも月に一度、美咲は渋谷区にある所属事務所へと足を運んでいる。自宅から電車で一時間。帽子をかぶったり、マスクで顔を覆い隠したりする必要はない。


 そんなことをしなくても、誰も美咲に気づかない。


 事務所が入るテナントビルは駅のすぐそばにある。エレベーターを降りて事務所のドアを開けると、見知った顔の女性スタッフがいた。


「あら、美咲ちゃん」


「こんにちは」


 美咲が事務所を訪れるのは毎月、二十日を過ぎた頃と決まっている。それには理由がある。


「今月も届いてるわよ」


「どうも」


 ある男から毎月、美咲宛てに薔薇の花束が送られてくる。それが二十日を過ぎた頃なのだ。


「受け取りご苦労さま。大学生活、楽しくやってる?」


「まあまあです」


「彼氏できた?」


「まだ。やっと友達が出来たところです」


 美咲はスケジュールの有無を確認するために事務所に来ているつもりだが、ここ何年も仕事がないせいで、ただ花束を受け取って世間話をするだけになっている。


 事務所に薔薇の花束が届くようになったのは、美咲がテレビの仕事をするようになってすぐのことらしい。


 今から十五年前。美咲はまだ五歳だった。なぜいつも薔薇なのかと不思議に思っていたが、どうやら美咲が幼い頃に「薔薇がいちばん好き」と言ったらしかった。


 事務所のオーディションに母親が応募したことがきっかけで、美咲は芸能界に入った。すぐにドラマの端役の仕事が決まり、そのドラマが高視聴率だったこともあって、仕事が舞い込むようになった。


 ドラマや映画で主演を務めるようになり、賞も獲った。多いときには十本以上ものCMに出演していた。


 当時、事務所にはファンからのプレゼントが大量に届いていたという。過激なものが混じっていたせいもあり、ファンから贈り物が美咲に渡されることはなかった。


 成長するにつれ、仕事は減っていった。ファンからのプレゼントも届かなくなっていき、とうとう薔薇の花束だけになった頃、美咲はその存在を知った。


 花束には必ず手紙が添えられている。ファンレターといえばそうなのだが、読むにはいつも勇気がいる。


『昨日、久しぶりに「少女探偵」のドラマを見ました。美咲ちゃんが七歳の頃に出演していたドラマです。何度見ても美咲ちゃんの演技は素晴らしい。美咲ちゃんが今ままで演じた全ての役が、今も僕の中で生き続けています。美咲ちゃんという存在を知って、僕は救われました。来月も、二十日の給料日に花を買って贈ります』


 美咲を心酔しているのであろう言葉の羅列。


 手紙の言葉はどこか粘着質で、毎回、美咲の体にまとわりついてくる。


 花束と手紙の差出人は、古賀暎一という。この男が、事務所のスタッフ達に「狂ったロリコン」と陰口をたたかれていることを美咲は知っている。


 美咲は、大きくなってから一度も表舞台に立っていない。子役ではない美咲は必要とされなかった。だから古賀という男の中で、美咲はいつまでも子供のままなのだ。


 だからこそ古賀は、世間から見向きもされなくなった元子役に、今でも花束を贈り続けているのだろう。


 小学校にはほとんど通えず、中学校では同級生たちから遠巻きにされた。


 高校生になった頃から少しずつ、普通の子供の生活に慣れていった。朝起きて、撮影現場ではなく学校へ行くという、普通の生活。


「やっぱり、普通が一番なのかもしれないわね」


 仕事が無くなった美咲に、母親はそう言った。慰めのつもりだったのか、有名人の子供を持つことに疲れた母親の本心だったのかは、今でもわからない。


 物心ついた頃から、美咲は別の人間を演じてばかりいた。そのせいで、美咲は自分というものがよくわからない。


 自分はどういう人間なのか。今、自分は怒っているのか、嬉しいのか、悲しいのか。自分の感情がうまく理解できないのだ。


 大学生になって、普通の生活にも慣れて、やっと美咲にも友達というものが出来た。学食で、気づいたら隣の席に座る女子が自分と同じランチを食べていた。


「今日のAランチ、微妙ですね」


 彼女に話しかけられて、美咲は頷いた。それが結衣子と友達になったきっかけだった。


 その日のAランチは、本当にイマイチだった。アジフライは生臭かったし、味噌汁は冷えていた。


 彼女は、美咲が昔テレビに出ていたことを知らなかった。


 琉川美咲という子役のことは知っていても、今、自分の目の前にいるのが本人だとは気づかなかったようだった。


「言われてみれば、面影あるね」


 打ち明けたとき、結衣子はずいぶん驚いていた。


 でも、当時のことを根掘り葉掘り訊いてきたり、興味本位で周りに吹聴したりしなかった。


 彼女は美咲にとって、初めて出来た大切な友達だった。


 今月もまた、二十日を過ぎた頃に事務所に向かう。


 ドアを開けると、そこにいつものスタッフの姿はなかった。


 代わりに、別の若い女性スタッフが出てきた。新人だろうか。美咲の知らない顔だ。


「こんにちは。どちら様でしょう」


 スタッフの明るい声にぎくりとする。


「……琉川です。琉川美咲」 


 美咲が名乗っても、すぐにはわからないようだった。


「るかわ……?」


 事務所の稼ぎ頭だったのは、もうずっと昔のことだ。 


「あ! 失礼しました。琉川さん。花束ですよね。今月もちゃんと届いてます」


「そうですか」


 笑顔で花束を手渡される。それを抱えて、美咲は事務所を後にした。スケジュールの確認はおろか、世間話もしなかった。


 当たり前だった自宅から事務所への送迎がなくなったのは、いつの頃だったのだろう。あの頃、美咲の送迎をしてくれていた運転手は今、別のタレントを担当している。マネ

ージャーは出世して管理職になった。


 美咲は大人になって、ただの人になった。ただの普通の人になった。普通は、良いことだ。母親もそう言っていた。


 帰ろう、と頭ではそう思うのに、体が動かない。花束を抱えたまま人混みの中を歩く。


 ふらふらと、渋谷の街をしばらく歩いたところで声を掛けられた。


「美咲ちゃん……?」


 頼りない声だった。


「美咲、ちゃん」


 確信しているのに、でもそれを信じられないような、不思議な声だった。


「美咲ちゃん」


 自分に言い聞かせるように、男は何度も美咲の名前を呟いている。


 そうして、気づいた。ああ、この男だ、と。


「花束、受け取ってくれて、ありがとう」


 男の声が、か細い、涙混じりのものになる。


 やっぱり、そうだ。


 古賀暎一。


 美咲は、この男に会いたくなかった。絶対に会いたくなかった。


 美咲はもう子供ではないということを、世界で一番、この男にだけは知られたくなかった。


 古賀に顔を見られたくなくて、美咲はずっと俯いたままだった。


「旋毛、きれいだね」


 そんな美咲に、古賀はお構いなしだった。


「美咲ちゃんの後頭部がね、昔からとても好きだったんだ」


 手紙と同じだ。口から発しても、男の言葉はやはり粘着質で、美咲の体にまとわりついてくる。 


「八歳の頃、役のために坊主にしたことがあったでしょう。頭のかたち、とても美しかった」


「きれいな歯並びだよね。左頬にある小さなほくろも、おとがいも、細い首も……」


 美咲の頭から、ゆっくりと男の視線は下がっていく。


 うっとりする古賀の声に、美咲は覚悟を決めた。


 思い切って顔を上げる。


「想像してた、ずっと。美咲ちゃんは、大人になったらどんな風になるんだろうって。でも、どんなに想像しても、考えても、わからなかった」


 古賀は、大人になった美咲を見て、思い知るはずだった。古賀が心酔している琉川美咲は、もうどこにも存在しないのだということを。


 それなのに、現在の美咲を知っても、古賀に落胆した様子はなかった。


「こんな風に、大きくなったんだね。夢みたいだ」 


 ただ目の前にいる美咲を、夢見るように見つめていた。


「ずっと、見ているだけですか」


 ふいにそんな言葉が、美咲の口をついて出た。 


「触りますか」


 本当に、自分は存在しているのだろうか。


 触れて欲しかった。確かめて欲しかった。


 そして、美咲がそれを許せるのは、この世で古賀映一だけなのだろうと思った。


 じっと古賀が美咲を見ている。美咲も、古賀を見た。気の弱そうな男だ。どこにでもいるような、普通の男。


 古賀は、何度も逡巡した。そして、やっと美咲に触れた。手の甲で左頬をそっと撫でる。古賀の手はひんやりとしていた。


 人の波が流れていく。


 それに逆らうように、古賀はゆっくりと歩いている。美咲は古賀のすぐ後ろについて歩いた。


 ふいに、結衣子の声が聞こえた気がした。結衣子と今週末に約束をしている。最近、話題になっている表参道のカフェに行く予定になっている。行こうね、と言い合った。でも、約束は守れないかもしれない。


 初めて出来た友達。平穏な日々。普通の生活。普通の人間。


 お母さん、普通って、何ですか。





  目を覚ますと、いつもそばで男が眠っている。線路沿いにある小さなアパート。この部屋には、幸福が満ちている。


 けれど、朝のこの時間だけは、ひどく頼りない気持ちになる。カーテンを開けると、窓から朝日が差し込んでくる。


 眩しい、と思う。だけど、どんな風に「眩しい」と言えばいいのか解らない。


 今日の自分は、どんな声色で話すのだろう。解らない。解らないのは、ひどく不安だ。


「今日は、とても優しい女の子」


 目を覚ました男が、ゆっくりと体を起こす。そして、美咲の耳元で囁く。


「少し、引っ込み思案なところがあって、年の離れた妹と、病気のお母さんがいる。妹の面倒を見たり、家のことをしたり、毎日すごく頑張っている」


 男の声はいつも優しい。この時間が美咲はとても好きだ。毎朝、美咲は新しい命を貰う。


「他人に甘えることが、苦手なのね」


「そうだよ。だからひとりで頑張り過ぎる」 


 少しずつ、輪郭が露わになっていく。


 どんな人間なのか、手に取るように解る。何を考えているか、どんな風に話すのか、笑うのか。


 その全てが理解できる。


「名前は、藤野あずさ」


 今日もまた、新しい名前を貰って、美咲は自分ではない人間の一日を生きる。


 夢のような日々が、ここにある。


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