暖をとっていた焚き火が小さく爆ぜて、バチ、と乾いた音がした。
読書用のタブレットを傍らに置いて、私は焚き火の様子を確認する。深夜のキャンプ地。真冬の空気はしんと冷たい。
私をキャンプに誘った人物は、隣で規則正しい寝息をたてている。疲れたのだろう。キャンプに必要な道具の準備から、テントの設営、火起こし、夕食の調理まで、彼が全て引き受けてくれた。
私は、手伝いすらろくにしていない。そのくせ、目一杯おいしいキャンプ飯を食べて、きれいな夜景を眺めて、このふたり旅を満喫している。
彼と一緒にいると、ときどき申し訳ないと感じるくらいに楽ちんなのだ。
ゆらゆらと揺れる火から、かすかに香りがただよってくる。
焚き火は、くべる薪によって炎の色や香りが異なる。松やクヌギ、ケヤキ、その中でもいちばん良い香りなのは、林檎の木だった。なんともいえない良い香りがする。
冷たい空気と一緒に、その香りを肺いっぱいに吸い込む。ふいに、彼と出会った頃のことを思い出した。
◇
彼は、私が大学生のときにアルバイトをしていたカフェの常連客だった。
カフェはログハウスで、店内の床や天井、壁までに至るまですべて木で作られいた。温もりを感じる空間には、木の香りが常にあった。
彼は無口なひとで、私も他人と話すことが苦手だったから、会話のない店員と客という間柄は、ずいぶん長い間続いていた。
彼が会計の際に取り出す革財布は、思わず見惚れるくらいに鮮やかな緑色だった。
「きれいな色の財布ですね」
大学卒業を間近に控えたある日、私は勇気を振り絞って声をかけた。
「メドー・グリーンです」
「めどう……?」
「簡単に言えば、緑色です」
鹿爪らしい彼の返答。それが、初めての会話だった。
そのメドー・グリーン革財布は、神戸にある革製品専門店で購入したものだと教えてくれた。
少しずつ打ち解けていくなかで、身近にある物をとても大事にしていること、値段が高くても大事にできるものを購入すること、旅行が趣味で、旅先で身の回りの物を整えていることを知った。
港町で買ったメドー・グリーンの革財布、信州の窯元で作られたコーヒーカップ、盛岡で買ったずっしりと重い鉄瓶、気泡が美しい琉球ガラスのぐい呑み、鯖江のおしゃれな眼鏡、播州織のシンプルなハンカチ。
「旅先で身の回りの物を買うのは、思い出ごと大事にできるから」
口数が少ない分、彼の言葉は私のなかに残った。
◇
バチ、と焚き火が爆ぜた音で、私は遠い日の記憶から引き戻された。
美しい炎が揺れている。私は重くなった瞼をこすりながら、焚き火の後始末をした。
彼を起こさないように、そっと横になり身を寄せた。
今でも彼は、メドー・グリーンの革財布を愛用している。彼のそばにあるものは、いつもとても大事にされている。
革財布、コーヒーカップ、鉄瓶、ぐい呑み、眼鏡、ハンカチ。そしてたぶん、私も。
彼の体温が、じんわりとあたたかい。私はそのあたたかさに安心して、ゆっくりと目を閉じた。
かすかに木の香りがする。林檎の木の香りは、火を消した後も、ほんのしばらくそこに留まっていた。