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第12話 ラジオと珈琲

 冬の朝。眠い目を擦りながら、僕は布団から身を起こした。僕が暮らす北陸は、曇り空が多い。雪に閉ざされ、冬も長引く。


 部屋の中は、しんと冷たい。ストーブに火を入れてから、キッチンに向かう。


 琺瑯のケトルに水を注いで、ストーブの天板に置く。


 まだ完全に覚醒していない頭で、ぼんやりと湯が沸くのを待つ。しばらくすると、しゅんしゅんとケトルが合図をしてくる。


 ペーパーフィルターをドリッパーにセットして、珈琲の準備を整える。ケトルを傾けると、やわらかな湯気が立った。


 最近、毎週土曜日は午前五時に起きている。


 休日の早起きは堪えるけれども、少し濃いめの珈琲を飲むこの時間が、僕はとても好きだ。


 珈琲は、味というより香りを楽しむものだと思う。少なくとも、僕はそう思っている。


 この香りを嗅ぐと、切ないような、恋しいような、そんな気持ちになる。同時に、彼女のことを思い出す。





 彼女と出会ったのは冬の初め。僕がまだ大学生の頃だった。


 アルバイトで入った小さな珈琲店に彼女はいた。


 遠いリトアニアから留学で日本に来ていた彼女の名前は、リナと言った。


「りとあにあは、しぜんのなまえつけることが、とてもおおいです。わたしは、あさ、です」


 リナという名前は麻が由来だという。


 僕は最初、繊維の「麻」ではなく朝昼晩の「朝」だと思っていた。


 朝は爽やかな感じがするとか、朝の空気は澄んでいて綺麗だとか、とにかく「素敵で良い名前ですね」ということを伝えたくて必死にしゃべっていた。


 きょとんとした顔で僕を見上げていた彼女が、あ、という表情になる。


「おはようじゃないです。ちがうあさ。りねんのあさです」


 恥ずかしい勘違いだった。


 何を言えばいいのか分からなくなり口を閉ざした僕とは反対に、彼女は楽しそうだった。


 にこにこ笑いながら人差し指で、僕の手のひらに「麻」という漢字を書いた。


 彼女と一緒に過ごしたのは短い間だった。珈琲の香りがいつも充満している店内で、僕は彼女と一緒にいた。


 冬が終わる頃、彼女は留学を終えて帰国した。


 それから一度も彼女は日本を訪れていない。彼女がいた冬は僕にとって特別で、だからあの冬がいつまでも僕の中にある。





 スマートフォンが震えた。午前五時半。僕はアラームを解除して、ラジオのアプリを起動させる。陽気なDJの声が耳に届いた。


「リトアニア語でお届けする番組です! リトアニアの今を楽しみましょう」


 日本に住むリトアニアの人々に向けたラジオ番組。この番組のリスナーになってから半年が経つ。


 当初はこれが言語なのだと理解することさえ出来ないほどだったが、最近は少しずつ聞き取れる単語が増えてきた。


 やっと日本で働けることになったのだと、彼女から打ち明けられたのが半年前。「やっとだよ」「うれしい」と言いながら弾む声は、ときどき涙混じりになった。


 春になれば、彼女は日本にやって来る。


 もう、思い出の中に戻らなくていい。


 長い冬が、もうすぐ終わる。



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