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第10話 セント・マーチンの夏

『秋の終わりに冷え込みがふっとゆるんで、暖くなる日があるでしょう。日本では小春日和っていうけど、イギリスでは、セント・マーチンの夏っていうらしいの』


 昔、母がそう言っていた。


 確かに優しい声だったと、今でも思う。


 もう、二度と聞くことはできない。





 妹とふたりで住む団地の外壁は、所々に亀裂が入っている。


 苔のようなものが生えていて、そのせいか団地内に入ると湿った空気が身体にまとわりついてくる。


 私は学校から帰った後、着替えをせずに掃除をして、洗濯物を取りこみ、ふたり分の夕食を作った。制服は脱がない。そうした方が客は喜ぶ。


 辺りが暗くなると、玄関のドアを開ける音がする。重い団地のドアはいつも鈍い音をたてて閉まる。


 自分の身体がどれくらいの金銭と引き換えになっているのか、私は知らない。


 私が学校へ行っている間に妹が客とSNSでやり取りをして決めているからだ。


 私の掌より、妹の掌より、大人の男達の掌はずっと大きい。


 その大きな掌が自分に伸びている間、私はいつも目の前のことではなく違うことを考えている。


 しばらくして大きな掌が自分の身体から去った後、私はやっと制服を脱ぐ。


 妹はときどき酷く気分が沈むことがある。


 そうなると上手く眠れず、眠るための薬を飲む。頼り過ぎるといけないと思い、薬は私が管理している。


 最近、気がかりなことがある。妹のところにひとりの男がたずねてくるのだ。

 悪い男ではないと妹は言うけれど、騙されやすいところがあるから目が離せない。


 妹から男の分の食事も作って欲しいと懇願されて、私は仕方なく三人分の食事を作るようになった。


 頻繁にたずねてくる男に妹は夢中になっている。以前のように、私のことを頼ろうとはしない。私のことを見ない。


 ふいに、父親のことが頭をよぎった。


 私の父親はイギリス人らしい。幼い頃にそう聞いた。けれど、顔も知らない父親に思いを馳せても、何の感情も湧いてこなかった。


 私は、妹さえいればそれで良かったのだ。





 ある日、妹が死んだ。


 男の運転する車が山道のカーブを曲がり切れず、ガードレールを突き破って渓谷に転落した。


 ふたりとも即死だった。


 両者の胃の中から睡眠薬が検出されたことから、心中だったと大人たちは声を潜める。


 ふたりが出かけることを私は知っていた。ドライブに行くのだと、嬉しそうな顔の妹が教えてくれた。


 男とドライブに行く。男と妹。私じゃない。


 私は行けない。


 どんなときも、あんなに、私は頑張ったのに。


 私は、唯一の家族を失った可哀想な子供になった。


 いつの間にか、高校を卒業するまで施設で暮らすことが決まっていた。


 迎えに来た施設の職員がそっと私の肩を抱く。同情と憐み。誰も私を疑わない。


 妹のスマートフォンは、事故の前日に私が捨てた。食事を作っていたのも、薬を管理していたのも私ではないと思っている。それが普通だからだ。


 小学生の頃、同級生の家に遊びに行ったことがあった。


 家の中は整理整頓が行き届いていて、美味しいご飯と優しく笑うそのひとがいた。


 そのひとは、私にはいない。そのひとがどうして仕事をしないのか、掃除や洗濯をしないのか、ご飯を用意してくれないのか、そうしてくれるはずの存在がなぜそうしないのか、私には分からなかった。


 いつの間にか、考えることをやめた。


 妹だと思うことで、庇護される側ではなく、自分が庇護する側なのだと思うことで、自分の気持ちに折り合いをつけた。


 それでよかった。幸せだった。それなのに、あの男が来た。


 私と妹の世界を壊した。それを許したそのひとを、初めて憎いと思った。


 私は車の窓から外を見た。灰色の団地が並ぶ風景が遠ざかっていく。湿った団地のにおいはもうしない。雲の切れ間から青空が見える。そういえば今日は、暖かい。


『秋の終わりに冷え込みがふっとゆるんで、暖くなる日があるでしょう。日本では小春日和っていうけど、イギリスでは、セント・マーチンの夏っていうらしいの』


 そのひとの声がよみがえる。


 とうとう、消えてしまった。


 本当にいなくなってしまったのだ。


 私は、妹だったそのひとに、さよならを告げた。


「バイバイお母さん」


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