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第9話 或る女のこと

 四畳半の小さな部屋に住んで一年になる。


 アパートというよりは、簡易宿所といったほうが正しいのだろう。風呂は無くトイレは共同で、住んでいるのは優一と同じく日雇い労働者がほとんどだった。


 壁には拾ってきた、いつ壊れてもおかしくない振り子時計が掛かっている。


 その壁の向こうから、くぐもった声がする。


 男と女の声だ。


 何かを叩き割ったり、女が殴られるような音も聞こえないから、どうやら今日はマシな客らしい。


 優一は、そっと部屋を出た。隣には女が住んでいる。


 何度顔を合わせても年は解らない。二十代半ばの優一とそう変わらないような気もするし、もしかしたら随分年上なのかもしれなかった。





 広場には大勢の人が列を作って並んでいた。市民団体による炊き出しが今日も行われている。


 路上生活者の多いこの町ではよく見る風景だ。


 優一は列に加わりながら、自分がこの町にすっかり染まったことを実感する。他人から施しを受けることに、もう何の躊躇いもない。


 部屋に戻ると、隣は静かになっていた。横になってしばらくすると玄関のドアをノックする音がした。


「あ、開いてる。無用心やなぁ」


 隣の部屋の女だった。真冬だというのに、女は裸足にサンダルを履いている。


 そのサンダルを脱いで部屋に上がり込んで来る。


「玄関の所にカレー置いてくれたん、あんたやろ。ありがとう、美味しかったわ」


 今日の炊き出しはカレーだった。余裕があるというのでもう一人分、分けてもらったのだ。


「もう冷めてたんじゃないの」


 外に置いたのは、男と鉢合わせしないためだ。女との関係を疑われて、面倒に巻き込まれるのは御免だった。


「そうやなぁ。ぬるかった」


 そう言って女は笑った。女はいつも笑っている。優一がこの町に来るずっと以前から隣の部屋に住んで、客を取りながら生活をしているらしい。


 タチの悪い客に当たることも多いようで、顔や体に痣があるのは日常茶飯事だった。


 それでも女は笑っている。「笑ったら殴られた顔が痛い」と言いながら笑っている。


 でも、本当は心の中では笑っていないことくらい優一にだって解っている。


「なぁ、あんたいつまでこの町におるつもりなん」


 最近、顔を合わせる度に女は言う。


「他人の人生に口を出さないのがここで上手く生きていく方法だって、教えてくれたのはあなたじゃないですか」


 この町に来たきっかけは、何だっただろう。普通に生きてきて、最初はほんの少し足を踏み外しただけだった気がする。


「あんたはここを出ていける人間や」


 落ちぶれて、プライドを捨てたら楽になった。自分と同じような人間を見て安心した。自分以下の人間を見て自分は幸せだと思った。


 だから、この女が言っていることは間違っている。


「出て行ける人間は、出て行かなあかんよ」


 優一にそう言ながら笑っていた女は、次の日、死んだ。


 首を絞められたことによる窒息死だった。


 女がひとり死んだくらいで、この町が変わることなんて何もなかった。


 駅前には早朝から仕事を求める男達で溢れている。広場ではどこかの市民団体が毎日のように炊き出しを行っている。


 数日後、客のひとりだった男が捕まった。


 しばらくの間、住人達は殺された女のことを「可哀そうだ」とか「自業自得」だとか言っていた。


 でも、冬が終わって少しずつ暖かくなる頃には、もう誰も女の話を口にしなくなった。


 ひとりの人間が死んで、そして忘れられていくのは、こうも簡単であっけないものなのか。





 優一が日雇いの仕事を終えて部屋に戻ると、玄関の扉に張り紙があった。『建物取り壊しのお知らせ』と汚い字で書かれている。


 次に住む場所を探さなければいけない。確か、歩いてすぐの所に同じようなアパートがあったはずだ。


 そう考えながら部屋に入ると、壁に掛かけてある時計がおかしいことに気づいた。振り子が止まっている。とうとう壊れたのだ。


 捨てようかと思ったが、止めた。修理すればまた使える。自分にはそれが出来る。優一はこの町に来るまで、そういう仕事をしていた。


『あんたはここを出ていける人間や』


 あの日の女の言葉を、優一は最近よく思い出す。


 頭の中で「違う」とその度に繰り返しながら、いつか否定出来なくなる日が来るのかもしれないと思う。


 でも、今はまだ「違う」としか言えない。


 とりあえず新しい部屋を探して、見つかったらこの振り子時計も持って行こう。


 愛着が湧いたのは、たぶん自分の持てる荷物が少ないからだ。あの女のことを忘れないのは、自分が空っぽの人間だからだ。


 空っぽで良かったと、優一は初めて思った。


 この部屋がなくなって、跡形もなく消えて、皆が女のことを忘れてしまっても、自分だけはあの女のことを覚えていられる。


 いつも裸足で、だから寒そうで、痣だらけで、それでも笑っていたあの哀れな女のことを、自分だけは忘れずにいられるのだ。

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