待ち合わせのカフェに着いたのは、有希子よりも私のほうが早かったらしい。
いつもの席に座ると、透明なグラスと水の入ったピッチャーが運ばれて来た。
私は溢れそうになるくらいまで、ゆっくりと水を注いだ。
水は溢れそうで溢れない。
もう少しなら足せる、と思ったところで、聞き慣れた静かな声が頭の上から降ってきた。
「こぼれるよ、水」
有希子が表情のない顔で私を見下ろしている。
「表面張力が見たくてさ」
おどけて舌を出す私をちらりと一瞥しただけで、それ以上の反応はない。
彼女がひどく冷めた顔をしているのはいつものことだ。
有希子とは、十年前に養護施設で出会った。
お互いに十一歳で、その頃にはもう有希子はこんな風だった。笑うことも怒ることもない。感情を失くした子供だった。
何年か後になって、彼女の生い立ちから施設に来るまでのことを聞いたとき、有希子がこうなったのも当然のことに思えた。
有希子は決して他人を信用しない。心を開かない。
私とは定期的に会って話をするけれど、分厚い壁が今も私と有希子の間にはあって、たぶんそれは一生壊れない。仕方がない。表情のない顔も、閉ざしてしまった心も、それが有希子の抱える傷なのだ。
「今回の彼とは長いけど、どうして」
一通りの近況報告を済ませた後、抑揚のない有希子の声がした。私の交際相手のことを有希子が口にするのは、たぶん初めてのことだ。
「優しいから、だと思う。でもめずらしいね。有希子がそんなこと聞くなんて」
「めずらしいのはそっちだと思う」
「そうかなぁ」
表情と同じで声の調子も常に一定の有希子と話していると、私の声は明る過ぎて、なんだか自分自身が滑稽に思えてくる。
「大事にしたほうがいい」
有希子の声が少しだけ低くなった。
「わかってる」
それにつられて、私の声も低音になる。
大事にしたほうがいいのは、私自身のことなのか、彼のことなのか。もしかしたら両方なのかもしれない。
どちらだったとしても、まして両方なんてとても無理で、そんな私を、本当は有希子もわかっているはずだ。
私も、有希子とそう大差ない幼少期を送った。
周囲から疎まれ、粗末な扱いを受け続けてあの養護施設に入ったとき、私は有希子とは正反対の子供だった。
それでも愛されたいと、大事に思われたいと願う愚かな子供だった。そのためなら何だってした。服を脱ぐのは簡単だったし、従順になれば喜ぶ男は多かった。
「ほとんど毎日メッセージのやり取りしてるし、彼とは仲良いよ。だから大丈夫」
自分に言い聞かせるみたいにして、明るく有希子に放ったはずの私の言葉はどこか震えている。
そっとグラスを手に取り、私は何度かに分けて水を飲み干した。
そして、また注ぐ。
ピッチャーを傾けると、中に入れてあったミントの葉が流れ出てグラスのなかで小さな渦を作った。
ミントの葉は渦に翻弄されてぐるぐると回っている。
もう少しで溢れる、というところで私は手を止めた。
あと数滴の水を足せば、グラスから水は溢れるだろう。注ぎ続ければいつか一杯になる。そして、溢れる。
彼とは、一年前に付き合い始めた。
優しいひとだ。自分には勿体ないくらいのひとだと思う。これまでの男とは違う。いつも私のことを気にかけてくれる。
愛されたいと、大事にされたいと、ずっと思っていた。その願いが叶った。
けれど、彼がくれる優しい言葉や仕草で、私の心の中がこのグラスのように満たされたり溢れたりすることはなかった。
カフェを出てすぐのところで有希子と別れた。バイバイ、と軽く手を振って歩き出す。
駅へ向かう途中の細い路地で、背後から男の声がした。
「これからどこ行くの?」
「可愛いね。ひとり?」
二人組の若い男だった。声をかけられるのは、よくあることだった。
自惚れているわけではない。私の外見が他人より優れているわけでもない。たぶん男にはわかるのだろう。
私が、とても簡単な女だということが。
「ひとりです。今から帰るとこ」
立ち止まってこんな風に応えれば、もう後は、本当に、簡単だ。
私は優しい彼の顔を心の中で黒く塗りつぶした。
罪悪感で苦しい。彼の優しい言葉や仕草は、私の中に留まることなく零れていく。
周りから疎んじられ、決して顧みられることのなかった子供時代を送った、これが私の傷なのだ。
全てを拒絶するのが有希子のほうが、全てを受け入れるのが私よりもずっと健全だ。
『大事にしたほうがいい』
ふいに、有希子の声がよみがえった。わかっている。でもできない。
(有希子だけは、私を捨てないで)
私は両方の手を、それぞれの男の腕に絡ませた。そしてゆっくりと、夜の街を歩き出した。