結婚してしばらくの間は、狭いアパート暮らしだった。
夫の仕事場の近くに手頃な賃貸物件を見つけて、息子の蓮が六歳になるまでは、家族三人で1LDKの部屋で暮らしていた。
アパートを出て大通りを抜けると、新しい戸建てが並ぶエリアがあった。ぴかぴかの家と、丁寧に手入れを施された庭。
庭には、季節ごとにきれいな花が咲いていた。アパートのベランダは狭くて、洗濯物を干すだけで精一杯だったから、余計に羨ましいと思ったのかもしれない。
きれいに咲く花々の名前を、あの頃の私はひとつも言えなかった。
いつか、こんな風に庭のある家に住みたいと思っていた。その夢が叶ったのは、蓮が小学校にあがる年のことだ。
大きいとは言えないけれど庭も手に入った。本を読んだり、自分で工夫したりして、季節ごとに花が咲くように手入れをした。
引っ越してから二年。今ではそれなりの庭になったと、私は毎日、自分の庭を眺めながら思っている。
九月に入って、朝の気温がぐんと低くなった。
夫と息子を見送ってから、花に水をやる。しばらくすると隣の家の玄関が開いた。スーツを着た背の高い男が出てくる。
「おはようございます」
私は元気なようでそうでもない、至って普通の声色で挨拶をした。
男は、ちらりとこちらに視線を寄越して、それから小さく頭を下げた。
「どうも」
ボソリと呟くような声に、今日の機嫌はイマイチだなと判断する。
男は隣の家のご主人で、かなりの気分屋というか、気分に振り回されるタイプの人間だ。
こちらの気分との温度差があると気まずいので、まずは落ち着いた口調で声を掛けるようにしている。
この家に越してきて、隣の家へ挨拶へ行ったとき、厄介な隣人だなと思った。
隣に住む宝井さん宅は子供はおらず夫婦ふたり暮らしで、奥さんは元気で愛想の良いひとだったのだが、ご主人は目つきの悪い無愛想な男だった。
とげとげしい雰囲気を醸し出す男を見て、生活するなかで何かトラブルになりはしないかと心配したが、それは杞憂に終わった。
男はかなりの小心者だった。仕事帰りの電車の中で男子高校生に足を踏まれたまま、その男子高校生が降りるまで何も言えず動けもしなかった話とか、コンビニで買い物をした際に釣り銭を間違えられ、それに気づいて引き返そうかと悩んだものの結局言えずに帰ってきた話など。
親しくなるにつれ、男は自分の家に入る前に、庭にいる私に向かってボソボソと愚痴を言うようになった。
「妻に言うとバカにされる」
そう嘆く隣人を、なんて気弱な男なんだと思った。ひどく肩を落としている。足を踏まれたことではなく、釣り銭を間違えられて損をしたことではなく、男は何も言えなかった自分に肩を落としているのだ。
そう思ったら、急に気弱な隣人が息子の蓮と重なって見えた。蓮は引っ込み思案なところがある。
息子二号だな、と心の中でひそかに認定した。隣人は自分よりもだいぶ年上の男だが、一度そう思ったら、もうそうとしか思えなかった。
肩を落としながら帰って来た日は、「大丈夫ですよ」と励ます。機嫌の悪そうな日は、さらりと挨拶を交わすだけで終わる。そんな日々が続いていた。
◇
奥さんではなく、私に愚痴を言ってくれることを嬉しいと感じるようになったのは、いつの頃からだったのだろう。
機嫌が良くても悪くても、どちらでもいい。挨拶をするだけでいい。顔を見るだけでいい。そんな風に思う自分に気づいて、愕然とした。
もう、息子の蓮とは、何ひとつ重ならなくなっていた。
彼に対する、この感情が何なのか、私は知らない。絶対に知らないのだと、自分に強く言い聞かせた。
◇
「きれいな庭ですね」
声を掛けられて顔をあげると、犬を連れた女性がいた。
「散歩の途中、よく見させていただいてるんですよ。お世話、大変じゃありません?」
陽は落ちかけているとはいえ、まだ蒸し暑い。女性は片手でリードを持ち、もう片方の手で汗を拭っている。
「ええ。でも、手をかけたぶん、花が咲いたときは嬉しいですから」
ポーラチュカ、ジニア、ハンゲショウ、サルスベリ。たくさんの花の名前を覚えた。ひとつも知らなかった頃が嘘みたいに詳しくなった。
アガパンサス、クレマチス、トケイソウ、ルドベキア。どれもきれいに咲いている。
女性が歩き去ってしばらくすると、道の向こうに、背の高い男の姿が見えた。
私は、心の中にある苗に水はやらない。
それなのに、気が付くと勝手に育っている。男が近づくにつれて、それはどんどん大きくなる。
「ただいま」
珍しく、向こうから声を掛けてきた。どうやら機嫌がいいらしい。青々とした新芽が、ぐんと伸びた。
「おかえりなさい」
この苗が育ったら、どんな花が咲くのだろう。その花は、何という名前なのか。
それはたぶん、永遠に知らないままでいなくてはいけない。
いつか咲きたいという心の中のつぼみを、私はぐしゃりと握りつぶした。