深夜、誰も居なくなった事務所で、私はタイムカードを押した。
今月はもう半分を過ぎたが、今のところ休みは一日もない。帰り支度をする気力も無く、その場でしばらくぼうっとしていると、スマートフォンが光った。
<○○も生きて○ま○>
届いたメールの文字は、所々が文字化けしている。差出人は確認しなくてもわかる。隣の家に住む男からだ。
就職して二年目になった現在も、大学へ進学するときに借りたアパートに住み続けている。アパートへは、会社から歩いて十分程で着く。玄関は大通りに面していて、その反対側には一軒家が建っている。
一軒家を外から見ることはできない。草や木が生い茂って伸び放題になっていて、その中に家がすっぽりと覆い隠されているからだ。
私が一軒家の存在に気づいたのは、二階の自分の部屋のベランダで洗濯物を干していたときだった。緑の草木の中に、わずかに赤い屋根が見えた。
初めて赤い屋根の家に住む男に会ったのは、大学二年の夏。前線の影響で前日から天気が荒れていた。干したままだった洗濯物が風で飛ばされて、その一部が隣の家の敷地内に落下したのだ。
恐る恐る、草木を分け入った先に家はあった。インターホンを押すと、「はい」という乾いた男の声がした。
「あの、すみません。隣のマンションに住んでいる者ですけど。こちらの敷地内に洗濯物が落ちてしまって。それで」
言い終わらないうちに、インターホンはガシャリと切れた。私はなんだか怖くなって、慌てて洗濯物を探して、草木の生い茂る場所から外へ出た。
二度と洗濯物が飛ばされないように気を付けよう。そう自分を強く戒めた。
それなのに、次の年の夏、私はまた同じ理由で隣の家のインターホンを押した。
「洗濯物? ああ。去年のひとか」
一年前よりは幾分、柔らかい声のような気がした。年季の入った玄関のドアがほんのわずかに開く。
こちらを窺うようにして男は立っている。青白い顔だ。表情は無く、年齢はよく分からなかった。
「次にインターホンが鳴ったら、今度こそ勇気を出して話をしてみようと思っていた」
男の発した言葉の意味が一瞬、理解出来なかった。よくよく話を聞いてみると、他人とまともに会話をするのが久しぶりだということが分かった。男は引きこもりだった。長い間、他人との交流を避けて暮らしてきたらしい。
一年前に私が訊ねて以来、新聞の勧誘や訪問販売の業者すら来ていないという。たしかに、外から見れば小さな森だ。中に家があるなんて誰も思わない。
なぜ引きこもるようになったのか、という理由は、男とメールのやり取りをするようになった現在でも知らないままだ。
男は一日に一度、決まった時間に「今日も生きています」というメールを送ってくる。私が寄越せと言ったからだ。
男の青白い顔は、なんとなく死を連想させた。「一言でいいから、必ず送ってください」という私の要求に、男は毎日応え続けている。
その「今日も生きています」という文字は、毎日必ず文字化けして送られてくる。なんだか伏字みたいで面白いと思う。
日によって文字化けしている部分は違う。おそらく、機種がかなり古いせいなのだろう。こちらから送っても、同じように文字の一部が伏字のようになっているという。
◇
タイムカードを押すと、ジジッ、という音とともに退勤時間が打刻された。
最近、一日のほとんどをこの事務所で過ごしている。
男からのメールは毎日届いている。最近は、自分も男に「私も、今日も生きています」とメールを返している。
今の私の願いは、起きなくてもいい朝を迎えること。柔らかい布団の中で、昼過ぎまで丸くなっていたい。
想像したら脳みそがしびれるくらいに幸せな気持ちになった。家に帰って、いつもは疲れてそのまま寝てしまうのに、今日はなぜか湯船に入ろうと思った。
湯をためながら、服を着たまま風呂場に座り込む。さっき、男にメールを送った。いつものように「私も、今日も生きています」とは送れなかった。
浴槽内に湯気が充満して、温かな熱気に心地良くなる。右手でカミソリを持ち、左手の手首にあてる。幸せな気持ちで眠りたい。もう朝は来ないで欲しい。
少しずつ薄れていく意識の中で、私はふいに、草木の生い茂る小さな森を見た気がした。
◇
目が覚めたとき、私は病院のベッドの上にいた。
すぐ傍に、青白い顔の男がいる。「あなたは病院に似合う男ですね」と私が言ったら、男は顔を真っ赤にして怒った。
そして、こんな風に人に怒ったのは生まれて初めてだと言いながら泣いた。男は、両手で携帯電話を握りしめていた。
自分が送った四文字が、そのまま古い携帯電話の画面に表示されているのを見た途端、自然と涙があふれてきた。
<たすけて>
あの日、私が送ったメッセージは、ひとつも文字化けすることなく、小さな森に住む男の元に届いていたのだった。