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第5話 小さな森

 深夜、誰も居なくなった事務所で、私はタイムカードを押した。


 今月はもう半分を過ぎたが、今のところ休みは一日もない。帰り支度をする気力も無く、その場でしばらくぼうっとしていると、スマートフォンが光った。


<○○も生きて○ま○>


 届いたメールの文字は、所々が文字化けしている。差出人は確認しなくてもわかる。隣の家に住む男からだ。


 就職して二年目になった現在も、大学へ進学するときに借りたアパートに住み続けている。アパートへは、会社から歩いて十分程で着く。玄関は大通りに面していて、その反対側には一軒家が建っている。


 一軒家を外から見ることはできない。草や木が生い茂って伸び放題になっていて、その中に家がすっぽりと覆い隠されているからだ。


 私が一軒家の存在に気づいたのは、二階の自分の部屋のベランダで洗濯物を干していたときだった。緑の草木の中に、わずかに赤い屋根が見えた。


 初めて赤い屋根の家に住む男に会ったのは、大学二年の夏。前線の影響で前日から天気が荒れていた。干したままだった洗濯物が風で飛ばされて、その一部が隣の家の敷地内に落下したのだ。


 恐る恐る、草木を分け入った先に家はあった。インターホンを押すと、「はい」という乾いた男の声がした。


「あの、すみません。隣のマンションに住んでいる者ですけど。こちらの敷地内に洗濯物が落ちてしまって。それで」


 言い終わらないうちに、インターホンはガシャリと切れた。私はなんだか怖くなって、慌てて洗濯物を探して、草木の生い茂る場所から外へ出た。


 二度と洗濯物が飛ばされないように気を付けよう。そう自分を強く戒めた。


 それなのに、次の年の夏、私はまた同じ理由で隣の家のインターホンを押した。


「洗濯物? ああ。去年のひとか」


 一年前よりは幾分、柔らかい声のような気がした。年季の入った玄関のドアがほんのわずかに開く。


 こちらを窺うようにして男は立っている。青白い顔だ。表情は無く、年齢はよく分からなかった。


「次にインターホンが鳴ったら、今度こそ勇気を出して話をしてみようと思っていた」


 男の発した言葉の意味が一瞬、理解出来なかった。よくよく話を聞いてみると、他人とまともに会話をするのが久しぶりだということが分かった。男は引きこもりだった。長い間、他人との交流を避けて暮らしてきたらしい。


 一年前に私が訊ねて以来、新聞の勧誘や訪問販売の業者すら来ていないという。たしかに、外から見れば小さな森だ。中に家があるなんて誰も思わない。


 なぜ引きこもるようになったのか、という理由は、男とメールのやり取りをするようになった現在でも知らないままだ。


 男は一日に一度、決まった時間に「今日も生きています」というメールを送ってくる。私が寄越せと言ったからだ。


 男の青白い顔は、なんとなく死を連想させた。「一言でいいから、必ず送ってください」という私の要求に、男は毎日応え続けている。


 その「今日も生きています」という文字は、毎日必ず文字化けして送られてくる。なんだか伏字みたいで面白いと思う。


 日によって文字化けしている部分は違う。おそらく、機種がかなり古いせいなのだろう。こちらから送っても、同じように文字の一部が伏字のようになっているという。





 タイムカードを押すと、ジジッ、という音とともに退勤時間が打刻された。


 最近、一日のほとんどをこの事務所で過ごしている。


 男からのメールは毎日届いている。最近は、自分も男に「私も、今日も生きています」とメールを返している。


 今の私の願いは、起きなくてもいい朝を迎えること。柔らかい布団の中で、昼過ぎまで丸くなっていたい。


 想像したら脳みそがしびれるくらいに幸せな気持ちになった。家に帰って、いつもは疲れてそのまま寝てしまうのに、今日はなぜか湯船に入ろうと思った。


 湯をためながら、服を着たまま風呂場に座り込む。さっき、男にメールを送った。いつものように「私も、今日も生きています」とは送れなかった。


 浴槽内に湯気が充満して、温かな熱気に心地良くなる。右手でカミソリを持ち、左手の手首にあてる。幸せな気持ちで眠りたい。もう朝は来ないで欲しい。


 少しずつ薄れていく意識の中で、私はふいに、草木の生い茂る小さな森を見た気がした。





 目が覚めたとき、私は病院のベッドの上にいた。


 すぐ傍に、青白い顔の男がいる。「あなたは病院に似合う男ですね」と私が言ったら、男は顔を真っ赤にして怒った。


 そして、こんな風に人に怒ったのは生まれて初めてだと言いながら泣いた。男は、両手で携帯電話を握りしめていた。


 自分が送った四文字が、そのまま古い携帯電話の画面に表示されているのを見た途端、自然と涙があふれてきた。


<たすけて>


 あの日、私が送ったメッセージは、ひとつも文字化けすることなく、小さな森に住む男の元に届いていたのだった。

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