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第4話 みゆき荘504号室の住人

 幼少期に発症した吃音症に、高校二年生になった今でも悩まされている。


 緊張すると「藤原みか」という自分の名前さえ言えなくなってしまうのだ。


 春、進級時のクラス替えは、私にとって地獄そのものだ。


 起立して、自己紹介をする。他人の視線が自分ひとりに集まっているのを感じると、途端に駄目になる。「ふ、ふふ、ふふふ」と同じ音を繰り返してしまう。


 教室は静まり返っていた。皆、面食らった顔をしている。驚いた目でこちらを見ている。こういうとき、気づくと私は息を止めている。消えてしまいたいと強く思っている。


 学校からの帰り道、みゆき荘というアパートの前で足を止める。築四十年は経過しているであろうこの古いアパートには、少し変わったところがある。


 一階に四部屋、二階に四部屋があって、普通なら一階の部屋番号は101からのはずだ。けれどこのアパートは501から始まっている。


 そして、二階は601からなのだった。


 一階の端、504号室は道路に面していて、表札は出ていないけれど人が住んでいることはすぐに分かった。


 朝、私が登校するときには、一人分の洗濯物が風に揺れている。学校から帰るときには僅かに開いた窓から夕餉のにおいがする。


 玄関の脇には、ほうきと塵取り、それからプランターが置いてある。玄関まわりは常に掃除が行き届いている。塵ひとつ落ちていない。プランターには、季節毎に違う花が咲いている。


 この辺りは、新しいマンションが建ち並ぶエリアだ。そこに、ぽつんと取り残されたようなみゆき荘。いくつもの無機質なマンション群の中で、このプランターに咲く花が、唯一の四季だと思った。


 年が明けて、三学期になった。


 二週間ぶりにアパートの前を通ろうとして愕然とした。みゆき荘が、ないのだ。あの古い二階建ての建物は跡形もなく消えてしまっていた。目に前にあるのは、ただの更地だった。


 嫌な予感がした。スマートフォンで必死に検索して、ようやく地方紙の小さな記事を見つけた。


『みゆき荘で暮らす最後の住人、年の瀬に病死。大家が発見し、警察に通報。504号室、小谷みや子さん(76歳)の死亡を確認』


 私は、あの部屋の住人の名前を初めて知った。


 そして、あの変わった部屋番号の意味も分かった。元々、みゆき荘はひとつではなかったのだ。


 みゆき荘は「第一」から「第三」まであった。


 第一みゆき荘の一階は101から、二階は201から始まり、第二みゆき荘の一階が301、二階が401からだったらしい。


 私が見ていたのは、第三みゆき荘だった。だから、一階が501からだったのだ。


 どうして、あのひとは最後まであのアパートに住み続けたのだろう。


 気になったけれど、私はもう、みゆき荘のことが書かれた新聞記事を、二度と読む気にはなれなかった。孤独死、無縁仏の文字を見つけてしまったからだ。





 三月。少しずつ寒さが和らいできた頃、みゆき荘があった場所に、ひとりで佇む女性の姿を見つけた。


 女性の隣に立つとと「ここに住んでいたひとの事、知っていますか」と声を掛けられた。私は頷くことに躊躇した。あのひとが死ぬまで、私は名前すら知らなかった。


「娘なんです、わたし。ここに住んでいたひとの」


 風に消えそうなくらい、小さな声だった。


「自分の子供のこと、何も興味がないひとだった」


 無表情のまま、女性は言葉を発している。


「男の人と、自分を着飾ることにしか興味がなくて。わたしが子供の頃に家を出たきり、どこにいるのかも分からなくて」


 ぽつり、ぽつり、抑揚のない音が女性の唇から漏れていく。


「ゴールデンウィークの、あの誕生日が最後だったな。父と母とわたしと。家族が揃っていたのは」


 彼女は目を伏せた。小さく息を吐いて、それから、私に背を向けて歩き出した。


 何かが心の中に引っかかった。


 ゴールデンウィークの誕生日。


 5月始めの、誕生日。


 気づいたら、私は駆け出していた。


 あなたの誕生日は、もしかしたら、5月4日ではないですか。あなたのお母さんが住んでいたのは504号室だったんです。一階なのに『504』なんて、おかしなアパートだって、私もずっと思っていました。老朽化してボロボロだったけど、最後の住人になっていたけど、それでも彼女は最後まで、ここで暮らしていました。504号室。きっと、特別な数字だったんです。


 毎日、洗濯をしていました。いつも質素な服でした。帰り道、夕餉のにおいがしていました。外回りはきれいに掃除がしてあって、プランターの花は、この無機質な場所で唯一の四季でした。ここには人間の暮らしがありました。名前も知らなかったけど、私はあなたのお母さんのことを知っています。知っているんです。


 頭の中では言葉があふれてくるのに、それを口にしようとすると上手くいかない。


 言葉になっていない私の声を聞いたら、きっと驚くだろう。面食らうだろう。変な目で見られるかもしれない。でも、それでも構わない。


 彼女に追いついた私は、荒れた呼吸を整える間もなく、懸命に口を開いた。そして、声を出した。

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