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第3話 向日葵の風船

 高校生になったばかりの今の私の生活は、平穏そのものだ。学校では友達も出来たし、父は毎日、魚市場に仕事へ行っている。


 両親が離婚したのは半年前のことだった。それを機に、私と父は、父の生まれ故郷であるこの海沿いの町に越してきた。言い争う父と母の声が無い家の中は、痛いくらいの静寂に満ちている。


 静まり返った部屋の中は、なんだか、とても息苦しい。父は昔からギャンブルにのめり込んでいた。酒が原因で職を失ったことも一度や二度ではない。


 母が愛想を尽かすのも当然だと思う。そんな父と、私は一緒に行くことを決めた。そんな父だから、ひとりには出来ないと思った。


『お母さんは、ひとりでも大丈夫だと思うから』


 私がそう言ったときの、母の顔が今でも頭から離れない。ひどく傷ついた顔をしていた。あんな顔は今まで見たことがなかった。


 静まり帰った家の中で、父について行くと決めた自分の選択は正しかったのだろうかと、時々、考えることがある。


 学校からの帰り道、ふと視線の端にゆらゆらと揺れる黄色い何かに気づいた。目を凝らすとそれは、風船だった。あてもなく、ふらふらと宙をさまよっている。


 しばらくすると、風船は道端にあるポストの上に見事、着地した。紐の先には小さな袋が括りつけられている。中には手紙と、植物の種が入っていた。


『ひろっていただきありがとうございます』


 手紙には、大きな文字でそう書かれている。ひと目で、小さな子供が書いたのだろうと想像できる。手紙を読むと、小学校の創立記念の一環として、校庭から風船が空に放たれたことが分かった。


『みずいろのふうせんは、わすれなぐさです。ぴんくのふうせんは、こすもすです。わたしのふうせんは、きいろだから、ひまわりです』


 どうやら、この植物の種は向日葵らしい。手紙の最後には大人の文字で、小学校の校名と住所が書き添えられていた。


 その住所に、思わず目を見張る。両親が離婚するまで、長年、家族で暮らしていた馴染みのある市の名前だった。ここからあの場所までは、500キロは離れている。こんな遠いところまで、風船は飛ぶことが出来るのか。


 ふいに、あの街で暮らす母のことが頭に浮かんだ。両親が離婚して以来、母とは会っていない。スマートフォンに届く母からのメッセージには、いつもそっけない返事をするだけだ。


 私は幼い頃から、誰かに甘えるということがひどく苦手だった。どうすれば良いのか分からないのだ。両親に対しても、それは同じだった。


 五月上旬、庭に向日葵の種を撒いた。芽はすぐに出た。そのことを手紙に書き、小学校に送った。向日葵は順調に、ぐんぐんと背丈を伸ばしていく。


 色々と調べて肥料をやり、倒れないように支柱を立てた。八月になったばかりのよく晴れた日、向日葵は咲いた。


 とても濃い黄色をしている。私は種を取るために一輪だけを残して、残りの花すべてに鋏を入れた。


 萎れないように処理をした向日葵を抱えて、私は新幹線に乗った。


 父にはなんとなく言い出しにくくて、母に会いに行くと言えたのは三日前だった。「そうか」と父は言った。それから、小さな声で「気を付けてな」と付け足した。





 半年振りの街は、何も変わったところはなかった。それなのに、もう私の知っている街ではない気がした。駅の北口を出て、以前住んでいた家に向かって歩く。


 南口を出てまっすぐ行けば、風船を放った児童が通う小学校に行き着く。杉崎あかね、というその少女とは、手紙のやり取りが続いている。


 平仮名ばかりだった文面に、少しずつカタカナや漢字が混じり始めたのを、微笑ましい気持ちで読んでいる。


 ずっと暮らしていた家なのに、インターフォンを押すのに勇気がいった。


 玄関が開いて、母の顔を見た瞬間「ただいま」という言葉が、無意識に私の口から零れた。「おかえり」という母の声が耳に届いて、それを懐かしいと感じた瞬間、私の強張っていた体の力がふっと抜けた。


 私が抱えていた向日葵は、母の手で花瓶に活けられ、玄関にある下駄箱の上に置かれた。この家にも、痛いくらいの静寂が満ちている。


 その静かな家で、三日間を過ごした。その間に、私というものが根本から変わることはなく、やはり、上手に甘えることは出来なかった。私は私のままだった。


 急に、あの黄色い風船のことが浮かんだ。私はずっと、あのときポストに不時着した風船みたいに、ゆらゆらと頼りなく揺れる自分の心を持て余していた。


 父と母が別れたとき、私はどちらかを選ぶしかなかったが、ふたりが自分の両親であることに変わりはないのだ。


 どちらの家にも「ただいま」と言って帰っていいのだ。そんな当たり前のことに気づいたとき、私の心の中の風船は姿を消した。


 静まり返った部屋の中で、ゆっくりと深呼吸をしてみる。静まり返った部屋の中でも、もう平気だった。息苦しいとは、感じない。

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