目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報
第2話 いつか爆ぜた心

 午後の授業を終えた教室は解放感に満ちている。


「誰か、立候補者はいないのか」


 担任が声を上げても何の反応もない。まだホームルーム中だというのに帰り支度に勤しむ者や、スマートフォンでオンラインゲームに興じている生徒もいる。


「仕方がないな。……杉里、お前、頼めるか」


 そう言いながら、一番前に座る生徒に視線を落とした。担任の申し訳なさそうな顔が、一番後ろの席に座る僕にもはっきりと見える。


 来月の卒業式の司会進行役を押し付けられた杉里美優は、長い黒髪をわずかに揺らしながら頷き「わかりました」と丁寧な口調で返答した。 


 担任が申し訳なさそうな顔をするのは、杉里がこのクラスの学級委員であり、生徒会役員でもあり、日頃から何かとクラスの面倒事を引き受けているからだった。


 素行に問題のある生徒が多く集まるこの高校で、大人しいけれどしっかり者の彼女に任せておけば、担任とすれば安心なのだろう。


「せり、なずな、ごぎょう、すずな、すずしろ」


 背後から声がして振り返ると杉里がいた。肥料をやる僕の手元を覗き込んでいる。杉里は放課後、時々こうして園芸部へやって来る。


「繁縷と仏の座もあるよ」


「すごいね。七草粥が出来る」


 彼女がここに来る目的はこれだ。


「1月7日の節句はとっくに過ぎたけど」


「お腹に入れば何でもいいのよ」


 繊細そうな顔立ちからは想像も出来ないが、杉里は食べるものに目がない。自らのためというよりは、家計を助けるためなのだろうと思う。彼女の家は母子家庭だ。杉里が長女で、弟が三人、妹が一人いる。 


 僕が杉里の家庭事情を知ったのは偶然だった。学校の帰り道、自転車に乗った杉里に遭遇した。制服のスカートの下に体操着のロングパンツを穿いて、豪快に自転車のペダルを漕いでいた。


 前カゴにはヘルメットを装着させた保育園児の妹を乗せ、後ろのカゴにはスーパーで購入したのであろう大量の食料品を積んでいる。控え目で大人しい委員長という学校での杉里のイメージは一瞬にして消え去った。


 杉里の母親は仕事で家を空けることが多いらしい。弟や妹の面倒を見るために、家からいちばん近い高校に通うことに決めたのだという。そういう杉里を、強いなと思った瞬間、僕は自分の弱さを思い出して嫌になった。


 物心ついた頃から、勉強漬けの日々だった。僕が学校から帰ると、必ず家の前で母親が待っていて、そのまま習い事の教室や塾へ通った。外で友達と遊ぶ時間も無く、テレビを見ることも許されなかった。


『あなたは凄いわね』


『やっぱり出来る子ね』


『これからも期待しているぞ』


 両親から褒められる度に苦しくなった。傷つけられるような言葉じゃないのに心臓の奥が痛いのはどうしてだろう。褒められているはずなのに追い詰められていく気がするのはなぜだろう。


 両親の期待は大きく膨らみ続け、僕を圧迫した。そしてとうとう、僕の心は爆ぜた。 


 ある日、突然、何も出来なくなった。体が動かない。勉強机に座ることすら不可能だった。もちろん第一志望には受からず、何とか滑り込めたのがこの学校だったのだ。





 昼休み、僕は園芸部にある鉢植えの手入れをするのを日課にしている。植物の世話をしていると、不思議と心が落ち着いてくる。


 ふいに気配がして後ろを向くと、杉里がいた。放課後ではなく昼休みに園芸部に来るのは珍しい。無言のまま、彼女は草むしりを手伝ってくれた。


 杉里は、たった一日で卒業式の司会進行の予定表を作った。それを今日の朝、担任に提出した。


『いやぁ、やっぱり凄いなぁ杉里は。出来る生徒がいて助かるよ。これからも頼むな』 


 担任はそう言って、浮かれた様子で杉里の肩を叩いた。僕は担任の発した言葉に、思わずひやりとした。


 杉里の表情は、僕の席から窺い知ることは出来なかった。僕は、杉里がいつか自分のようになってしまうのではないかと思った。杉里は家でも学校でも頼りにされている。


 彼女にとってそれは、何でもないことかもしれない。ただ僕が、あまりに弱い人間だっただけなのかもしれない。


 だけど絶対に大丈夫なんて、そんなの、誰にも分からない。


「手伝うから、僕も。卒業式」


「……いいの?」


 杉里はこちらを見ない。雑草を抜き続けている。


「挨拶の原稿が必要だろう? 僕がまとめるよ。去年の卒業式の映像が残ってると思うから、それを適当にアレンジする」


 彼女の手が、ぴたりと止まった。


「そんなので、いいのかな」


「適当でいいよ。どうせ誰もまともに聞いてない。それにああいう挨拶って、どれも同じようなもんだと思うし」


 杉里は少し笑った。そしてこちらを向いて「確かに、そうね」と言った。


 昼休みの終わるチャイムが鳴って、僕たちは立ち上がった。


 土のついた手を軽く払って、そして、二人で一緒に教室へと戻っていった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?