わたし、
ぼんやりと天井を眺めていると、窓の外から朝の音が聞こえてくる。車やバイクが通り過ぎていく音。わたしの部屋は二階にある。橙色のカーテンを開けて、道路に面した小さな窓を覗くと、中年の女性二人が家庭ゴミを抱えたまま立ち話をしていた。軽やかな女性ふたりの話声が耳に届く。
その脇を初老の男性と散歩中の犬が通り過ぎて行く。隣家の玄関扉が開いて、サラリーマン風の男性が出て来た。わたしは隣に住むあの男性のことを何も知らない。名前も分からない。一年前、この真新しい一軒家に両親と共に引っ越してきた。それから一度も、わたしはこの家の外へは出ていない。
高校生の頃、イジメを受けて学校へ行けなくなった。クラスメイトも先生も、人間すべてが怖くなった。部屋に引きこもるようになって、もう二年が経つ。
朝は、とても怖い。まぶしくて、そのまぶしい中を颯爽と歩くひとたちは、より一層キラキラしている。
昼過ぎになって一階に降りた。キッチンには一人分の食事が用意されている。母が作ったわたしの昼食だ。両親は共働きで、家の中はいつも静かでがらんとしている。壁に掛けられた三月のカレンダーには、父と母の予定が細かく書き込まれている。仕事で遅くなる日、習い事がある日、地域のボランティアに参加する日。両親はいつも忙しそうにしている。
わたしだけ、何の予定もない。
食器を洗い終えて二階の部屋に戻った。窓の外から聞き慣れた声がして、わたしはカーテンを開けた。歩道に、向かいの家に住む小さな男の子とその母親がいた。親子で歩道のゴミを拾っている。
「ゴミ、またあったよ」
窓を開けると、男の子の元気な声が聞こえてくる。母親は男の子を見守りながら、「そうだね」と頷いている。近所にコンビニがあるせいか、歩道には頻繁にゴミが投げ込まれている。毎日、そのゴミを親子は淡々と拾い続けている。
◇
カレンダーが四月になってしばらくすると、あの親子の姿は見えなくなった。
『息子の病気が少しでもよくなるように、空気がきれいなところで暮らしたいと思って』
あの日、向いに住む男の子と母親が家に尋ねて来た日。自分の部屋少しだけ開けると、そんな声が聞こえてきた。親子が引っ越してから、徐々に歩道にはゴミがあふれていった。
ペットボトルや空き缶、スナック菓子の袋。どうしてゴミをゴミ箱に捨てることができないのか。何だか我慢できなくなって、わたしは夜遅く、家族が寝静まった頃に家の外へ出た。歩道に出てゴミを拾う。部屋から持ってきた小さな袋はあっという間にいっぱいになった。ざっと周りを見渡して、ゴミが落ちていないことに満足する。久しぶりに外の世界に出た。夜の空気は少しつめたくて、とても澄んでいる。わたしは何度か深呼吸を繰り返して、そして、自分の部屋に戻った。
深夜のゴミ拾いが日課になった。明るいうちに外へ出ると人がいるから、ゴミを拾うのは必然的に夜になる。二週間ほど続けたある日、突然後ろから声を掛けられた。
「あら。ゴミ、拾ってくれてるの」
中年の女性だった。見覚えがある。ゴミ収集がある朝、よく立ち話をしているひとだ。
「こ、こん、ばんは……」
視線を逸らしながら、わたしはなんとか声を絞り出す。自分の態度は挙動不審ではないかと思い始めたら急に怖くなった。家の中に入りたい。後ずさりするわたしに、女性は親しげに声を掛けてくる。
「小川さんのところのお嬢さんよね。私、三軒隣の藤田です。来週ね、収集場所の掃除当番、小川さん家なのよ。だからこれ、ポストに入れておこうと思ってたんだけど、ちょうど良かったわ。はい、渡したからね」
手渡されたのは木の札だった。『〇〇地区・掃除当番』と達筆な字で書かれている。収集車がゴミを回収した後、収集場所の掃除をする決まりがあるのだという。この場所で暮らし始めて一年。今までこんな当番があることも、わたしは知らなかった。
◇
一階で母の作った昼食を食べながら、カレンダーを見る。今月も父と母には予定がたくさんある。何度も、何度も逡巡した。意を決して、わたしはゴミ収集のある日、来週の火曜と金曜のところに、自分の予定を書き込んだ。
『結衣里・朝、掃除当番』
朝、街が動き出す音がする。
車やバイクのエンジン音。立ち話をする女性たちの笑い声。散歩中の犬が吠えている。窓を覗くと、隣の家の男性が出勤するところだった。
わたしは今日も、朝の六時ちょうどに目が覚めた。外へ出るために服を着替えて、髪を整える。八時を過ぎた頃、収集車がやって来た。自分の部屋の中で、何度も深呼吸をする。一階に降りると、朝食を作る母がいた。父は新聞を読んでいる。
わたしは、囁くほどの小さな声で「おはよう」と言った。それから、玄関でほうきとちりとりを手にした。玄関のドアを開ける。まぶしい。とても。
わたしは目をすがめるようにして、そしてゆっくりと、朝の時間の中へと足を踏み出した。