――ゆっくりとした時が流れる。
この納屋には俺と女魔族しかいない。
(今日は満月か)
窓から見える月はとても美しかった。
俺が月に見とれていると女魔族が話しかけてきた。
「……月が綺麗だね」
「ッ!」
俺としたことが油断してしまっていた。
警戒感が薄れ、僅かながらの隙が生じたことを自覚する。
「……お兄さん、隙だらけだったよ」
「あまり喋るな」
カタストハンマーを握りしめる、それは自分自身の緊張感が緩んだことへの戒めだ。
すると、女魔族はくすりと笑った。
「ふふっ……おかしい」
「おかしい?」
「無骨な戦士様が月に見とれるなんてね。吟遊詩人みたいだったよ」
「……吟遊詩人だと?」
俺は眉をひそめた。思いも寄らぬ言葉に少しだけ動揺が走る。
「そう、月に魅せられて静かに佇む姿、まるで詩を紡ぐ詩人そのものだったよ」
女魔族は穏やかな声でそう語りながら、どこか挑発的な笑みを浮かべる。
「俺はそんな風流な男じゃない。ただの戦士だ――それ以上でも、それ以下でもない」
強く言い返すつもりだったが、どこか言葉に力がこもらない。
先程の油断がまだ尾を引いているのかもしれない。
「戦士だって心は持っているだろう?」
女魔族は柔らかな視線を向けながら言葉を続けた。
「戦いだけが生きる理由じゃない。こんな夜には、ただ月を眺めることだって悪くないでしょう? 私はそう思う」
その言葉に一瞬返す言葉を失う。
戦い続ける毎日の中で、こうして静かに月を眺めることなどなかった。
剣を握り、常に敵の気配を探り続ける日々。
休息すら刃のように鋭い緊張の中で行うものだった。
「確かに……そんな気持ちを忘れて久しいな」
思わず呟いてしまった言葉。
女魔族の目が少しだけ柔らかく揺れた。
「あんた笑っている?」
「そう見えるのか」
「気だけじゃなくて顔も緩んでるよ」
自分でもおかしかった。
今まで敵と思っていた魔族、殺すか、殺されるかの関係だった。
それがこうして何気ない会話をしている。
「お前、名前は何という」
「名前?」
女魔族は少し驚いたように首を傾げた後、穏やかな笑みを浮かべた。
「名前なんてものを聞いてどうするの?」
「討つにしても、名も知らぬ相手では風情がない」
自分でも妙なことを言ったと思った。
しかし、なぜかその場を覆う奇妙な空気が、そうさせたのかもしれない。
多くの魔族には名前が無い。あるとしたら上級の妖魔や幻獣だけだろう。
「おかしなことを言うね。これまで倒してきた魔物にそんなことは聞いてきたの?」
女魔族の言葉が胸に刺さる。
魔獣、悪魔、妖魔、ドラゴンなどこれまで多くの敵と戦ってきた。
これまでのイグナス達の戦いで、敵である相手に名前など尋ねる余裕も必要もなかった。
ただ斬り、前へ進むだけ――。
それが戦士としての本分、俺に与えられた役目だったからだ。
「お前の名前を教えて欲しい」
「だから、どうして……」
「名前とは命であり、存在の証明だからだ」
自然と漏れ出た言葉だった。
それは心からの想い、そこに噓偽りはない。
どうにも、俺はこの女魔族を敵として見ることは出来なかった。
それは人間のなりをしているから、または俺の甘さからなのか、それとも――。
「ガルア!」
その時だった。
勢いよく納屋の扉が開いた。
「そいつが例の魔族か」
イグナスだ。
防具をつけず、片手には白銀の剣を携えている。
ジルの話を聞き、急いで駆けつけた様子だ。
僅かながら息を弾ませているところから、ここまで走ってきたのだろう。
「どういった系統の魔物か知らんが、強力な呪文を隠し持っているかもしれないな……やるなら速攻だ」
イグナスは剣を構えて、戦闘準備を整える。
俺は急いで立ち上がり、女魔族の前に立った。
「イグナス……」
「どうしたガルア、邪魔をするな。だいたい何故すぐに殺さなかった?」
「それは……」
口を噤む俺に、イグナスは疑惑を目を向ける。
「お前……まさかと思うが『逃がそう』と思ってないだろうな」
そのイグナスに問いに俺は黙るしかない。
この女魔族に情が湧いたのは事実。
殺さず逃がそうという選択がどこかしら頭をもたげていた。
「見た目が人間、若い女の姿に惑わされているのか?」
「……それは違う」
「言い訳するなよ、お前は現に俺の前に立った。役立たず目、やはりお前をパーティから追い出して正解だったよ。サキュバスなんかの誘惑にかけられたら厄介だ」
そう吐き捨てると、
「早く消さないと……」
イグナスは女魔族に歩み寄り、剣を振り上げる。
女魔族の細い首元目がけて振り下ろそうとしていた。
「……!」
女魔族は目をつむり、覚悟したかのような表情だ。
「ガルア、そこをどけ! 魔族は全て敵だ!」
「待ってくれないか、彼女にも心というものが……」
「心? そんなものは魔族にはない!」
イグナスは片手で俺を押しのけ、女魔族の元へと歩み寄る。
「こいつらは、俺達に倒されるために生まれた人形なんだよ!」
白銀の剣を振り下ろそうとした――その瞬間、俺は動いた。
「やめろ!」
咄嗟に体が反応し、イグナスと女魔族の間に飛び込む。
振り下ろされた剣は俺の肩口をかすめ、鋭い痛みが走る。
だが、致命傷ではない。
「……ガルア!」
イグナスの怒りがこもった声が響く。
彼の目には、信じられないという感情と共に深い失望が浮かんでいた。
「ガルア、本気で俺を邪魔するつもりか?」
「聞いてくれ……彼女は俺達が知る魔族とは違う! 話をすればわかる!」
「話す? 魔族と話すだと? ふざけるな!」
イグナスは激しく剣を振り上げ、今度は俺を狙って構える。
その目には、これまでの仲間としての情は微塵も残っていない。
「お前がその魔族を庇うなら、俺の敵だ!」
「イ、イグナス……」
「そうか……わかったぞ! 脳筋の戦士は状態異常攻撃に弱い! そうか、あの魔族は誘惑の特技を持っているのか!」
「俺は誘惑など……」
「暫く『戦闘不能』になってもらうぜ!」
白銀の剣が月の光を浴び、濁った輝きを放ちながら振り下ろされる。
その瞬間、俺の体は勝手に動いた――。
――ゴギャッ!
鈍い音が走った。
確実に骨が砕ける深い音。
数多の魔物を斬り、断ち、粉砕したときの音だ。
「お、お前……やはり誘惑……ぐぶっ……!」
俺はカタストハンマーでイグナスの胸を強打していた。
カタストハンマーは当たると確実に会心の一撃で出る。
……が命中率は1/3。
今回ばかりは運よく当たった。
そう俺はイグナスを攻撃したのだ。
「がはっ!」
そして、イグナスは吐血してそのまま倒れた。
その地に臥せた姿はこれまで屠り去った魔物のようだった。
「あ、あんた……」
一連の光景を見ていた女魔族は俺を見て驚いている。
それもそうだろう、まさか人間に命を救われるなどとは思わなかっただろう。
「逃げるぞ」
「え?」
「逃げると言っているんだ。さっさと呪文を発動して、その縄を焼き切れ」
促された女魔族は無言で、手から小さな火を練り出すと縄を焼き切った。
縄から解かれた女魔族だが、まだ呆然と俺を眺めていた。
「すぐにここから出る」
俺は女魔族の手を取ると納屋から出る。
行く先がわからない逃避行――。
しかし、女魔族の白く細い手は不思議と冷たくはない。
むしろ何故か暖かい温もりを感じたのだった――。