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第4話

 慶応四年閏四月十一日。鴨川から立ち上る朝靄は、静かに京の町の足下に流れる。朝靄の中、山崎は、首の奪取に向けた最後の下見に来ていた。実はこの時、室も近くに居たが、山崎は気付くことはなかった。室も気付かなかった。それほど、一寸先も見えないのではないのかと言うほどの、深い深い靄だった。


 慎重に、山崎は首が晒されている竹垣に近づいていった。警備のものが居る訳ではないので、あとは、この竹垣を越えなければならない。と、その時、山崎は急に朝靄が引いていくのを感じた。視界を覆っていた靄が晴れ、竹垣の中の様子を伺うことが出来た。


「何故だ! 何故、首がないっ!」


 そこには、近藤の首があるはずだったが、忽然と消え失せていた。山崎の言葉を聞きつけて、室が竹垣に近づく。


「こ、近藤局長の……首がない!」


 室は小さく「畜生ッ!」と罵る。山崎は、暫く、室を見ていた。


「室君? 君は、一番隊の室君じゃないか」と声を掛けると、室は傍らの山崎を見た。山崎は、十徳を着ている。姿だけ見れば、ただの医者だった。


「山崎さん……監察の、山崎さんじゃないですか。どうして、こんな所に? ……それと、首は? 首はどうしたんです?」


「首は知らない。私も、今、ここに来たばかりだ。朝靄があまりにも深くて見えなかったから、近づいてみたら……無かったのだ。もう、首はなかった」


「まさか……」と呟く室だが、確かに、今まで首が置かれていた台には、首はない。釈然としない気持ちになった山崎だが、いつまでも、ここに居れば、人の目に付くだろうと考えて、「室君、ここから早く離れた方がいいだろう。首を持ち去った犯人に勘違いされたら困る」と室に呼びかけた。室は、少し考えるような素振りをしたが、


「解りました」と応じて、山崎と共に足早に三条河原を後にした。二人は、暫く無言で、歩いていた。どこに行く、とは言わなかったが、室も付いてくる。


「山崎さん。その格好は?」と室は聞いた。山崎は、少し、歩く速さを緩めた。そういえば、早朝に、足早に歩いているかち医者がいたら、不思議だろう。早駕籠に乗るのならばともかく、違和感がある。


「新撰組はもう、無いからねぇ。私は、こうして医者になったというわけだ」という山崎に、室は「では、大坂や京で医者を?」と質問してきた。


「いや、いまは、松本良順先生の所で、江戸住まいさ。今は、用事があって京に戻ってきたが、すぐに戻って、会津に向かおうと思っているよ」


「そうですか……」と室は呟いた。それきり、何かを聞くことは無く、不動堂村屯所にたどり着いた。不動堂村屯所の荘厳華麗な姿は、雑草に埋もれていた。常に、どこかから、剣術稽古のかけ声や、怒鳴り声が聞こえてくる、騒がしいところだったが、今は人っ子一人いないのがよく解る。寂寞せきばくとしていた。


「つい、半年前まで、ここに居たというのが信じられない有様ですね」と室は言う。山崎も同感だった。


「……近藤さんも、もう、この世に居ないというのが、私には信じられないよ。その、首さえ、どこかに持ち去られてしまった。昨日、この手で盗み出しておくべきだった」


 山崎は悔しそうに、柱を叩き付けた。頑丈な造りの屯所は、びくともしない。代わりに、山崎の拳が、赤く血を滲ませた。室は、山崎の見せた思わぬ激しさに驚いた様子だった。山崎は、あまり、激するようなところは無かった。常に安定していると言うのが、室の印象だった。確かに、調査や取調を行う監察部であるから、沈着であるのは第一の素養なのだろう。


「……室君、病身の母御はどうした? その為に、新撰組を抜けたのだろう? なのに、なぜ、戻ってきたんだい?」


「山崎さん……。なぜ、私の母が病気だと?」


 思わぬ言葉だった。誰にも言ったことはなかった。事情を知っていたのは、京洛の薬屋くらいのはずだ。病に効く薬を調合して貰って、母に送っていた。直接、行って看病を出来れば良かったが、新撰組では、幹部以外の平隊士は、屯所に寝泊まりすることが決められていた。とても、母の看病など、出来なかった。非番の時を見計らって、薬や文を出すので精一杯だった。だから、もう、母に先がないと解った時には、新撰組を抜けてでも、看病に向かうほか無かったのである。


「……室君が、失踪した翌日には、もう、室君の居場所はわかっていましたし、大体の事情もわかっていましたから。実は、土方さんが、良く出入りしていた薬屋に、室君も通っていたのが解っていたからね。土方さんが、すぐに、室君の実家まで行って確認して来いという命を出してまして。でも、事情が事情だったから、室君のことは『探索中』で押し通すようにと決めたていました。誰も異存はなかったよ。私たちは、親の死に目にも会えないような、親不孝者だからね。せめて、室君には、母上の為に忠を尽くして欲しいと思ったのです」


「そうだったのですか……」と室は呟いた。「私は、てっきり、沖田隊長か永倉隊長が、お口添え下さったものとばかり思っておりました。副長は、平素より法度について厳しい方だったので、このような事を許して下さるはずは無いと思っていました」


「そうだな……」


 たしかに、法度法度と口やかましい男だった。土方本人も、しっかり法度を守っているものだから、文句も言えない。法度に背けば、切腹。この掟を作ったのは土方だ。新撰組の法度は、土方の理想の武士像だと言う人も居る。しかし、端的に考えれば、法度に背けば待ち受けるのは死だ。不都合があった時には、法度に背くように誘導すれば、容易く処分の理由が出来る。土方が、新撰組を回していく上で、都合の良いシステムだった。邪魔者を排除する為には、これを利用すればいいからだ。


 だからこそ、土方は『きちがい』と呼ばれる。冷酷で、如才がなく、嫌な男だと言われる。新撰組の局内でも、相当の嫌われ者でもあった。何をするのも、平然としているのも不気味だった。捕縛した者達を拷問に掛けることも良くあったが、土方の拷問は、正視できないほどのものだった。


(酷い拷問をしたあとなのに、月が綺麗だとか花が綺麗だとか言う人だったな……)


 監察部は、調査と取調を担当する。当然、山崎も土方の拷問に付き合ったことがあるが、苛烈な責めに、見ている方も嫌な思いをした。何度も吐きそうになった。


 良く覚えているのが、古高俊太郎の件だった。後ろ手を縛り上げて逆さにつるした。足の裏に五寸釘を打ち付けて、百目蝋燭を立てて火を灯した。つまり、足裏を燭台にしたのだ。溶けた蝋は、古高の足裏から臑まで伝っていく。半刻ほど、古高の悶え苦しむ声が、部屋に低く響いた。山崎などは、『早く自白してくれ』と切に思ったが、土方は平然としたもので、さらに刀の鞘で古高を打擲しながら、自白を促していた。結局、古高の自白がかの『池田屋事件』の成果に繋がったのだ。土方に出された報奨金が、近藤に次いで高かったのには、この拷問での自白が大きいだろう。


 拷問を終えた土方は、実にいつも通りだった。平然と飯を食い、月を見上げていた。


 実は、法度におびえたのは、平隊士たちよりも幹部たちだった。なにせ、新見錦・芹沢鴨という巨頭が、法度の名の下に粛正されているのだ。土方の手に掛かれば、どんなことになるか解ったものではない。


(だからこそ、近藤さんは、監察部の私を、近くに置きたかったのだろう)と、山崎は思った。土方が、部屋にまで呼ぶ山崎は、近くを探らせるのに適した人材だったと言える。その為だけに、側に留められたのだとしたら、切ない。もとより近藤の人柄に惹かれたのも新撰組入隊を志した理由の一つだった。その近藤の近くに侍るようになり、ますます、近藤に惹かれた。身を捧げてからは、誠も近藤に捧げるのだと思っていたし、真摯な気持ちで近藤の側に居た。


「……ご相伴したかった……」思わず、口をついて出た言葉を、室が聞きつけた。室は、山崎と近藤の事は知っていたので、


「山崎さんは、お辛いでしょう。……私も、沖田先生から、死ぬなと命じられました。今まさに、死の淵を彷徨われる沖田先生が、私に生きろと言うのです。ですから、山崎さんも、死んではならぬと思います」


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 慶応四年閏四月十一日。鴨川から立ち上る朝靄は、静かに京の町の足下に流れる。朝靄の中、山崎は、首の奪取に向けた最後の下見に来ていた。実はこの時、室も近くに居たが、山崎は気付くことはなかった。室も気付かなかった。それほど、一寸先も見えないのではないのかと言うほどの、深い深い靄だった。


 慎重に、山崎は首が晒されている竹垣に近づいていった。警備のものが居る訳ではないので、あとは、この竹垣を越えなければならない。と、その時、山崎は急に朝靄が引いていくのを感じた。視界を覆っていた靄が晴れ、竹垣の中の様子を伺うことが出来た。


「何故だ! 何故、首がないっ!」


 そこには、近藤の首があるはずだったが、忽然と消え失せていた。山崎の言葉を聞きつけて、室が竹垣に近づく。


「こ、近藤局長の……首がない!」


 室は小さく「畜生ッ!」と罵る。山崎は、暫く、室を見ていた。


「室君? 君は、一番隊の室君じゃないか」と声を掛けると、室は傍らの山崎を見た。山崎は、十徳を着ている。姿だけ見れば、ただの医者だった。


「山崎さん……監察の、山崎さんじゃないですか。どうして、こんな所に? ……それと、首は? 首はどうしたんです?」


「首は知らない。私も、今、ここに来たばかりだ。朝靄があまりにも深くて見えなかったから、近づいてみたら……無かったのだ。もう、首はなかった」


「まさか……」と呟く室だが、確かに、今まで首が置かれていた台には、首はない。釈然としない気持ちになった山崎だが、いつまでも、ここに居れば、人の目に付くだろうと考えて、「室君、ここから早く離れた方がいいだろう。首を持ち去った犯人に勘違いされたら困る」と室に呼びかけた。室は、少し考えるような素振りをしたが、


「解りました」と応じて、山崎と共に足早に三条河原を後にした。二人は、暫く無言で、歩いていた。どこに行く、とは言わなかったが、室も付いてくる。


「山崎さん。その格好は?」と室は聞いた。山崎は、少し、歩く速さを緩めた。そういえば、早朝に、足早に歩いているかち医者がいたら、不思議だろう。早駕籠に乗るのならばともかく、違和感がある。


「新撰組はもう、無いからねぇ。私は、こうして医者になったというわけだ」という山崎に、室は「では、大坂や京で医者を?」と質問してきた。


「いや、いまは、松本良順先生の所で、江戸住まいさ。今は、用事があって京に戻ってきたが、すぐに戻って、会津に向かおうと思っているよ」


「そうですか……」と室は呟いた。それきり、何かを聞くことは無く、不動堂村屯所にたどり着いた。不動堂村屯所の荘厳華麗な姿は、雑草に埋もれていた。常に、どこかから、剣術稽古のかけ声や、怒鳴り声が聞こえてくる、騒がしいところだったが、今は人っ子一人いないのがよく解る。寂寞せきばくとしていた。


「つい、半年前まで、ここに居たというのが信じられない有様ですね」と室は言う。山崎も同感だった。


「……近藤さんも、もう、この世に居ないというのが、私には信じられないよ。その、首さえ、どこかに持ち去られてしまった。昨日、この手で盗み出しておくべきだった」


 山崎は悔しそうに、柱を叩き付けた。頑丈な造りの屯所は、びくともしない。代わりに、山崎の拳が、赤く血を滲ませた。室は、山崎の見せた思わぬ激しさに驚いた様子だった。山崎は、あまり、激するようなところは無かった。常に安定していると言うのが、室の印象だった。確かに、調査や取調を行う監察部であるから、沈着であるのは第一の素養なのだろう。


「……室君、病身の母御はどうした? その為に、新撰組を抜けたのだろう? なのに、なぜ、戻ってきたんだい?」


「山崎さん……。なぜ、私の母が病気だと?」


 思わぬ言葉だった。誰にも言ったことはなかった。事情を知っていたのは、京洛の薬屋くらいのはずだ。病に効く薬を調合して貰って、母に送っていた。直接、行って看病を出来れば良かったが、新撰組では、幹部以外の平隊士は、屯所に寝泊まりすることが決められていた。とても、母の看病など、出来なかった。非番の時を見計らって、薬や文を出すので精一杯だった。だから、もう、母に先がないと解った時には、新撰組を抜けてでも、看病に向かうほか無かったのである。


「……室君が、失踪した翌日には、もう、室君の居場所はわかっていましたし、大体の事情もわかっていましたから。実は、土方さんが、良く出入りしていた薬屋に、室君も通っていたのが解っていたからね。土方さんが、すぐに、室君の実家まで行って確認して来いという命を出してまして。でも、事情が事情だったから、室君のことは『探索中』で押し通すようにと決めたていました。誰も異存はなかったよ。私たちは、親の死に目にも会えないような、親不孝者だからね。せめて、室君には、母上の為に忠を尽くして欲しいと思ったのです」


「そうだったのですか……」と室は呟いた。「私は、てっきり、沖田隊長か永倉隊長が、お口添え下さったものとばかり思っておりました。副長は、平素より法度について厳しい方だったので、このような事を許して下さるはずは無いと思っていました」


「そうだな……」


 たしかに、法度法度と口やかましい男だった。土方本人も、しっかり法度を守っているものだから、文句も言えない。法度に背けば、切腹。この掟を作ったのは土方だ。新撰組の法度は、土方の理想の武士像だと言う人も居る。しかし、端的に考えれば、法度に背けば待ち受けるのは死だ。不都合があった時には、法度に背くように誘導すれば、容易く処分の理由が出来る。土方が、新撰組を回していく上で、都合の良いシステムだった。邪魔者を排除する為には、これを利用すればいいからだ。


 だからこそ、土方は『きちがい』と呼ばれる。冷酷で、如才がなく、嫌な男だと言われる。新撰組の局内でも、相当の嫌われ者でもあった。何をするのも、平然としているのも不気味だった。捕縛した者達を拷問に掛けることも良くあったが、土方の拷問は、正視できないほどのものだった。


(酷い拷問をしたあとなのに、月が綺麗だとか花が綺麗だとか言う人だったな……)


 監察部は、調査と取調を担当する。当然、山崎も土方の拷問に付き合ったことがあるが、苛烈な責めに、見ている方も嫌な思いをした。何度も吐きそうになった。


 良く覚えているのが、古高俊太郎の件だった。後ろ手を縛り上げて逆さにつるした。足の裏に五寸釘を打ち付けて、百目蝋燭を立てて火を灯した。つまり、足裏を燭台にしたのだ。溶けた蝋は、古高の足裏から臑まで伝っていく。半刻ほど、古高の悶え苦しむ声が、部屋に低く響いた。山崎などは、『早く自白してくれ』と切に思ったが、土方は平然としたもので、さらに刀の鞘で古高を打擲しながら、自白を促していた。結局、古高の自白がかの『池田屋事件』の成果に繋がったのだ。土方に出された報奨金が、近藤に次いで高かったのには、この拷問での自白が大きいだろう。


 拷問を終えた土方は、実にいつも通りだった。平然と飯を食い、月を見上げていた。


 実は、法度におびえたのは、平隊士たちよりも幹部たちだった。なにせ、新見錦・芹沢鴨という巨頭が、法度の名の下に粛正されているのだ。土方の手に掛かれば、どんなことになるか解ったものではない。


(だからこそ、近藤さんは、監察部の私を、近くに置きたかったのだろう)と、山崎は思った。土方が、部屋にまで呼ぶ山崎は、近くを探らせるのに適した人材だったと言える。その為だけに、側に留められたのだとしたら、切ない。もとより近藤の人柄に惹かれたのも新撰組入隊を志した理由の一つだった。その近藤の近くに侍るようになり、ますます、近藤に惹かれた。身を捧げてからは、誠も近藤に捧げるのだと思っていたし、真摯な気持ちで近藤の側に居た。


「……ご相伴したかった……」思わず、口をついて出た言葉を、室が聞きつけた。室は、山崎と近藤の事は知っていたので、


「山崎さんは、お辛いでしょう。……私も、沖田先生から、死ぬなと命じられました。今まさに、死の淵を彷徨われる沖田先生が、私に生きろと言うのです。ですから、山崎さんも、死んではならぬと思います」


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 慶応四年閏四月十一日。鴨川から立ち上る朝靄は、静かに京の町の足下に流れる。朝靄の中、山崎は、首の奪取に向けた最後の下見に来ていた。実はこの時、室も近くに居たが、山崎は気付くことはなかった。室も気付かなかった。それほど、一寸先も見えないのではないのかと言うほどの、深い深い靄だった。


 慎重に、山崎は首が晒されている竹垣に近づいていった。警備のものが居る訳ではないので、あとは、この竹垣を越えなければならない。と、その時、山崎は急に朝靄が引いていくのを感じた。視界を覆っていた靄が晴れ、竹垣の中の様子を伺うことが出来た。


「何故だ! 何故、首がないっ!」


 そこには、近藤の首があるはずだったが、忽然と消え失せていた。山崎の言葉を聞きつけて、室が竹垣に近づく。


「こ、近藤局長の……首がない!」


 室は小さく「畜生ッ!」と罵る。山崎は、暫く、室を見ていた。


「室君? 君は、一番隊の室君じゃないか」と声を掛けると、室は傍らの山崎を見た。山崎は、十徳を着ている。姿だけ見れば、ただの医者だった。


「山崎さん……監察の、山崎さんじゃないですか。どうして、こんな所に? ……それと、首は? 首はどうしたんです?」


「首は知らない。私も、今、ここに来たばかりだ。朝靄があまりにも深くて見えなかったから、近づいてみたら……無かったのだ。もう、首はなかった」


「まさか……」と呟く室だが、確かに、今まで首が置かれていた台には、首はない。釈然としない気持ちになった山崎だが、いつまでも、ここに居れば、人の目に付くだろうと考えて、「室君、ここから早く離れた方がいいだろう。首を持ち去った犯人に勘違いされたら困る」と室に呼びかけた。室は、少し考えるような素振りをしたが、


「解りました」と応じて、山崎と共に足早に三条河原を後にした。二人は、暫く無言で、歩いていた。どこに行く、とは言わなかったが、室も付いてくる。


「山崎さん。その格好は?」と室は聞いた。山崎は、少し、歩く速さを緩めた。そういえば、早朝に、足早に歩いているかち医者がいたら、不思議だろう。早駕籠に乗るのならばともかく、違和感がある。


「新撰組はもう、無いからねぇ。私は、こうして医者になったというわけだ」という山崎に、室は「では、大坂や京で医者を?」と質問してきた。


「いや、いまは、松本良順先生の所で、江戸住まいさ。今は、用事があって京に戻ってきたが、すぐに戻って、会津に向かおうと思っているよ」


「そうですか……」と室は呟いた。それきり、何かを聞くことは無く、不動堂村屯所にたどり着いた。不動堂村屯所の荘厳華麗な姿は、雑草に埋もれていた。常に、どこかから、剣術稽古のかけ声や、怒鳴り声が聞こえてくる、騒がしいところだったが、今は人っ子一人いないのがよく解る。寂寞せきばくとしていた。


「つい、半年前まで、ここに居たというのが信じられない有様ですね」と室は言う。山崎も同感だった。


「……近藤さんも、もう、この世に居ないというのが、私には信じられないよ。その、首さえ、どこかに持ち去られてしまった。昨日、この手で盗み出しておくべきだった」


 山崎は悔しそうに、柱を叩き付けた。頑丈な造りの屯所は、びくともしない。代わりに、山崎の拳が、赤く血を滲ませた。室は、山崎の見せた思わぬ激しさに驚いた様子だった。山崎は、あまり、激するようなところは無かった。常に安定していると言うのが、室の印象だった。確かに、調査や取調を行う監察部であるから、沈着であるのは第一の素養なのだろう。


「……室君、病身の母御はどうした? その為に、新撰組を抜けたのだろう? なのに、なぜ、戻ってきたんだい?」


「山崎さん……。なぜ、私の母が病気だと?」


 思わぬ言葉だった。誰にも言ったことはなかった。事情を知っていたのは、京洛の薬屋くらいのはずだ。病に効く薬を調合して貰って、母に送っていた。直接、行って看病を出来れば良かったが、新撰組では、幹部以外の平隊士は、屯所に寝泊まりすることが決められていた。とても、母の看病など、出来なかった。非番の時を見計らって、薬や文を出すので精一杯だった。だから、もう、母に先がないと解った時には、新撰組を抜けてでも、看病に向かうほか無かったのである。


「……室君が、失踪した翌日には、もう、室君の居場所はわかっていましたし、大体の事情もわかっていましたから。実は、土方さんが、良く出入りしていた薬屋に、室君も通っていたのが解っていたからね。土方さんが、すぐに、室君の実家まで行って確認して来いという命を出してまして。でも、事情が事情だったから、室君のことは『探索中』で押し通すようにと決めたていました。誰も異存はなかったよ。私たちは、親の死に目にも会えないような、親不孝者だからね。せめて、室君には、母上の為に忠を尽くして欲しいと思ったのです」


「そうだったのですか……」と室は呟いた。「私は、てっきり、沖田隊長か永倉隊長が、お口添え下さったものとばかり思っておりました。副長は、平素より法度について厳しい方だったので、このような事を許して下さるはずは無いと思っていました」


「そうだな……」


 たしかに、法度法度と口やかましい男だった。土方本人も、しっかり法度を守っているものだから、文句も言えない。法度に背けば、切腹。この掟を作ったのは土方だ。新撰組の法度は、土方の理想の武士像だと言う人も居る。しかし、端的に考えれば、法度に背けば待ち受けるのは死だ。不都合があった時には、法度に背くように誘導すれば、容易く処分の理由が出来る。土方が、新撰組を回していく上で、都合の良いシステムだった。邪魔者を排除する為には、これを利用すればいいからだ。


 だからこそ、土方は『きちがい』と呼ばれる。冷酷で、如才がなく、嫌な男だと言われる。新撰組の局内でも、相当の嫌われ者でもあった。何をするのも、平然としているのも不気味だった。捕縛した者達を拷問に掛けることも良くあったが、土方の拷問は、正視できないほどのものだった。


(酷い拷問をしたあとなのに、月が綺麗だとか花が綺麗だとか言う人だったな……)


 監察部は、調査と取調を担当する。当然、山崎も土方の拷問に付き合ったことがあるが、苛烈な責めに、見ている方も嫌な思いをした。何度も吐きそうになった。


 良く覚えているのが、古高俊太郎の件だった。後ろ手を縛り上げて逆さにつるした。足の裏に五寸釘を打ち付けて、百目蝋燭を立てて火を灯した。つまり、足裏を燭台にしたのだ。溶けた蝋は、古高の足裏から臑まで伝っていく。半刻ほど、古高の悶え苦しむ声が、部屋に低く響いた。山崎などは、『早く自白してくれ』と切に思ったが、土方は平然としたもので、さらに刀の鞘で古高を打擲しながら、自白を促していた。結局、古高の自白がかの『池田屋事件』の成果に繋がったのだ。土方に出された報奨金が、近藤に次いで高かったのには、この拷問での自白が大きいだろう。


 拷問を終えた土方は、実にいつも通りだった。平然と飯を食い、月を見上げていた。


 実は、法度におびえたのは、平隊士たちよりも幹部たちだった。なにせ、新見錦・芹沢鴨という巨頭が、法度の名の下に粛正されているのだ。土方の手に掛かれば、どんなことになるか解ったものではない。


(だからこそ、近藤さんは、監察部の私を、近くに置きたかったのだろう)と、山崎は思った。土方が、部屋にまで呼ぶ山崎は、近くを探らせるのに適した人材だったと言える。その為だけに、側に留められたのだとしたら、切ない。もとより近藤の人柄に惹かれたのも新撰組入隊を志した理由の一つだった。その近藤の近くに侍るようになり、ますます、近藤に惹かれた。身を捧げてからは、誠も近藤に捧げるのだと思っていたし、真摯な気持ちで近藤の側に居た。


「……ご相伴したかった……」思わず、口をついて出た言葉を、室が聞きつけた。室は、山崎と近藤の事は知っていたので、


「山崎さんは、お辛いでしょう。……私も、沖田先生から、死ぬなと命じられました。今まさに、死の淵を彷徨われる沖田先生が、私に生きろと言うのです。ですから、山崎さんも、死んではならぬと思います」


7


「沖田さんは……そんなに、お悪いか……」と山崎は苦々しく呟いた。松本良順の江戸医学館に入院していた沖田を見たことがある。二月頃だったか。その頃も、もう、げっそりと痩せて、酷い状態だった。三月。寧ろ、良く持ったのかもしれない。と、山崎は、あることに気がついた。


(たしか、室君は、京の出身ではなかったか? ……ならば、なぜ、沖田さんの事を知っているのだ。もしや、室君は、沖田さんと逢っているのか? ならば、なぜ、三条河原にいた?)


 急に険しい顔になった山崎に、室が「山崎さん、どうしましたか?」と聞く。山崎は、幾らか躊躇いながら、


「室君。君は……沖田さんから、なにかをされて、にきたのかい?」と聞いた。首……とは直接言わなかったが、室が、びくっと肩をふるわせたのを見て、これはだ、と思った。


「室君。もしや……君は、沖田さんから、近藤さんを連れて帰るようにと……頼まれているのかい? ならば、後生だ。私に、近藤さんを渡して呉れないかい?」


「違います!」と室は山崎の懇願を振り切るように言った。「違います。山崎さん。私はたしかに、沖田先生から、近藤先生の首の件を、頼まれましたが、それは、出来ることならば、土方先生が絶対に解らないような所に、近藤先生の首を埋めてくるようにということだったのです。土方先生の手に渡れば、近藤先生の首は、ぞんざいな扱いを受けることがあるかも知れないと言うことで、沖田先生は、そのことを大層案じていらっしゃいまして、私が、こうして、京まで向かい、近藤先生を、弔おうと思っていたのです」


「なるほど」と山崎は一応、合点がいった。「たしかに、土方さんならば、近藤さんの首を踏みにじりそうな気がするが……沖田さんも、土方さんを、思っていたと言うことか……」


「山崎さん、沖田先生というのは? 他に、どなたが、こんな事を言うのです」


「近藤さんだよ。………私は、近藤さんに頼まれて、首を回収にきたのだよ。回収してから、土方さんが、全く知らないような場所に、埋めてくれと言う頼みでね。近藤さんは、土方さんに騙されたようなものだからね。近藤さんを差し出して、自分は悠々と、北に旅立ってしまった。近藤さんの無念は、計り知れない」


 無念だっただろう、と山崎は思うが、死の瞬間、『これで良い』と呟いた近藤の真意が、よく解らなかった。なにが、これで良かったのだろうかと、山崎は思う。想定できる最悪の事態ではないかと思うのだが、近藤には、あの結末で良かったのだろう。


「……それで」と室は、遠慮がちに聞いてきたので山崎の思考は途切れた。「近藤さんの首は……山崎さんがお持ちというわけではないのですね?」


「当たり前だ。……だが、妙だ。昨日の昼までは、たしかに三条河原にあったのだ。なぜ、あれが無くなってしまったのか……私や室君以外の誰が、近藤さんの首を欲しがるというのだ。近藤さんは、我々にとっては、新撰組局長という大切な方であるが……我々以外のものが、首を欲しがる理由がわからない」


「たしかに」と室は頷いた。「他の隊士たちも、わざわざ、近藤さんの首を弔ったりはしないでしょうし……、近藤さんのご実家や道場の方も、京まで来ることは出来ないでしょうね。そうすると、一体誰が、あの首を持ち去ったのかという話になります」


「沖田さんや、近藤さんは……土方さんの手に、渡ることを恐れていたな」と山崎がポツリと呟く。


「まさか……土方先生が? 土方先生は、会津に行っているのでは?」と室はかすれた声で言う。


「しかし、室君。土方さんのところには、沢山の人間が居るだろう。ならば、何人かを京に向けることも可能だ。きっと……土方さんの手の者達が、近藤さんを奪っていったのだ」


 茫然と、山崎は呟いた。「じゃあ、近藤さんの首は、どこに行ったんだ……」


「解りませんが……土方先生ならば……」と室は一度、言を切った。ふと、室は、香りを聞いたような気がした。幻の香りだろう。不動堂村屯所は、ほこりっぽい。土のような、枯れたような、喉の奥がこそばゆくなりそうな、黴の混じった匂いがする。良い香りがするはずがない。


(これは、なんの香りだったか……)記憶をたどる。香りは、記憶に強く結びついている。思い出すのは、容易いはずだ。甘い、微かな、香りだ。微かなはずなのに、強い。芯の強さを感じる香りだ。


『この梅は、香りも良いだろう? 枝振りも見事だし、花も良い』


 土方の言葉を思い出した。(ああ、あの梅だ)と室は思った。土方の部屋から見える、美しい白梅。


「……まさか、土方さん……梅の木の下に……?」


「室君、どうした。梅とは……土方さんの部屋から見えた、あの梅か?」


「以前、あの梅を見ていた時に、辞世の和歌うたの話をされたのです。だから……」


「辞世? 土方さんは、辞世を用意していたのか?」


「いえ、違います。どなたかの辞世だと言っていました。良くは覚えていませんが……『散りても後に匂ふ』とか『馨は君が袖に移らん』とか、そんな歌だったと思います」


 室の言葉に、山崎は考える素振りをしたが、出てこないようだった。


「私の知っている方の、辞世ではないようだね。………でも、そんな辞世を諳んじられるんだから、土方さんは、随分、梅が好きなようだ。ちょっと行ってみようか」


 山崎は、スッと立ち上がった。室も続いた。不動堂村屯所の長い廊下を行く。廊下は、かつて、隊士達が糠袋を使って磨き上げていたので、艶やかに輝いているはずだった。毎日毎日、掃除は、鍛錬の一つだということで、これも、手抜きは許されなかった。道場の隅から隅まで毎日毎日全員で水拭きをする。不動堂村屯所は、大所帯を抱える新撰組であるから、部屋数も相当なものになった。毎日埃を払い、畳を乾拭きして部屋中を清めた。便所や風呂も綺麗に掃除をした。庭の手入れもした。雑草は一本残らずに引いた。


 昔の美しかった不動堂村屯所は、夢だったのではないか―――とすら、室や山崎は思う。今や、狐狸妖怪の類でも住み着いていそうな程に荒れ果てたこの屋敷が、新撰組不動堂村屯所だと思うものは居ないだろう。


 人気のない屯所を行きながら、山崎は(悔しい)と思った。(もし、あの時、伏見の戦いで、勝っていたら……!)不動堂村屯所は、このような惨状になることはなかった。山崎は近藤を喪うことは無かった。


 あの戦いに、参加したことが、間違いだったのだ、と山崎は思う。将軍だった、德川慶喜でさえ、逃げ出したのだ。新撰組も、逃げれば良かった。けれど、逃げなかった。逃げなかったから、取り残されてしまった。


 逃げ出した将軍は、次の時代も、生き長らえるだろう。けれど、逃げなかった新撰組は、時代に取り残された。旧恩はあった。幕府にも、会津にも良くして貰っただろう。だが、恩義の為に戦うことを選んだのではない。新撰組は、ことを拒んだのだ。そして取り残された。


 土方の部屋にたどり着いた二人は、注意深く梅を見た。土が掘り返された様子は無い。それを見た二人は、肩を落とした。


「掘り返す迄もありませんね。硬い土だ。周りと様子も変わらない。掘り返されたと言うことはないでしょう」


「本当だな」と山崎は溜息混じりに言った。「……しかし、なら、首はどこに行ったのだろうな。近藤さんの首が、無残なことになっていなければ良いが。うち捨てられたり、野犬に食わせたりということが無ければ、それで良い」


 山崎は目を閉じた。瞼の裏に、近藤を思い描いた。笑っていた。



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