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第1話

 慶応四年四月二十五日は、小雨しよううであった。小雨の中、山崎はじっと竹垣の中を見つめていた。昨日、横倉喜三次の所に行くと、すでに、別の屋敷に近藤が移された後だったと言われた。最初、山崎は、意味がわからなかったが、沈鬱な表情で、横倉喜三次は告げた。


「明日、板橋の刑場で、首を落とされることが決まった。太刀持ちは、手前と決まっている。なにか……近藤殿に、言い残すことなどあれば」


 覚悟はしていたつもりだったが、面と向かって言われるとやはり応える。なにも、と言おうとしたが、未練だろうか、相伴を許されなかった代わりに、山崎はその場で短刀を取り出すと髪を切って、懐紙に入れたものを横倉喜三次に預けた。


 せめて、これくらいは許して欲しいと、山崎は思った。横倉も山崎も、特別、何も言わなかったが、すべて心得たようだった。必死で泣くまいと堪えている山崎の姿は、いじらしく、何人もの相手と誓いを交わしたという、近藤の浮気性を思えば、なおのこと哀れになる。(そなた一人ではないのだぞ)と言いたくなったが、止めた。


 傷を作って誓いを立てる衆道の誓いや、義兄弟の誓いならば、近藤の体をよく知る山崎の方が、身に染みて知っているだろう。


「近藤局長を、よろしくお願い致します」と山崎は地面に頭を擦りつけて、頼んだ。応えはせずに、ただ、頷くと、山崎はもう一度「お願い致します」と言って、暫く動けずに突っ伏していた。


 山崎は、そのまま、板橋の刑場に向かった。朝一番、見物人が集まるより早く、竹垣の側に居た。刑場には、茣蓙が敷かれており、役人達が、穴を掘ったり周囲に集った野次馬達を警戒し始めた。切腹ではないのか、と山崎は悔しく思った。流山で、切腹すれば、武士として誇らしく死ぬことが出来ただろう。けれど、断首である。罪人として処刑されると言うことである。切腹ならば、扱いは『賜死ちようし』であり、『死を賜る』である。断首は、処刑だ。意味合いが違う。市中引き回しの上、磔に為らなかっただけでもマシかも知れないが、首は罪状と共に三日三晩晒される。


 小雨が、降りしきる。


 涙雨なのだ、と山崎は思った。誰の涙か。山崎の涙であり、近藤の涙であり、新撰組のすべての隊士の涙であろう。死んでいった、芹沢鴨や伊東甲子太郎でさえ、新撰組のこのような哀れな末路を、想像することは出来なかったはずだ、と山崎は感傷的に為ったが、不意に、ある人の姿が過ぎっていった。


(いや)と山崎は思った。(ならば、この末路を描いていたかも知れない)


 山崎は、唇を噛み締めた。今戸八幡に住まう松本良順の元で働いている山崎は、つい先日、妙な情報を得た。その情報によると、土方の指示で、『新撰組』が動いているというものだった。土方について行った、島田魁たちの事をさして、『新撰組』と言っているのかと思ったが、そうではなかった。ましてや、土方・近藤と袂を分かった永倉新八達、『靖兵隊』でもなかった。


 実は、四月四日、流山での近藤の出頭騒ぎがあった裏で、土方は江戸に向かい、『新撰組本隊』は幕府軍とは全く別ルートで、独自に合図に向かっていたということだった。隊長は、山口次郎。つまり、斉藤一である。


 会津に向かうならば、奥州街道が手っ取り早い。ただし、ここでは、敵に気付かれる。ならば、ここで取るべきルートは、日光経由か、越後ルートである。越後ルートは、古く、上杉景勝が会津に国替えになった際に使用したとされる古道である。しかし、新撰組本隊は、意外なルートを通った。水戸縦断である。


 しかし、ここでも、妙なルートを通っている。水戸に行くのならば、流山から、真っ直ぐ水戸街道まで抜け、水戸街道を北上すればよい。流山からならば、水戸街道など目と鼻の先だ。しかし、新撰組本隊は水戸街道を行くことはなかった。流山から、銚子に向かい、潮来を経た後に水戸、さらに平潟、そこから、内陸に向かうという。時間ばかりが掛かるルートである。ここで、もし、銚子や潮来、平潟などで海路の確保をしているのならば解るが、のちの行動から見ても、海路の確保のようなことはしていない。水戸で、新たな新撰組隊士でも見つけようというのならば、それこそお門違いだ。水戸は、勤王の中心地とも言える土地である。幕府軍の新撰組に付く者などいるはずがない。


 さらには、水戸人として名の通った芹沢鴨や伊東甲子太郎を惨殺した新撰組を、憎々しく思う者も多いはずだ。芹沢鴨は、水戸で勤王活動をしていたとも言われており、その時の郎党は三百人とも言われる。その報復を考えれば、わざわざ、水戸を通る理由がない。


 潮来から水戸までということは、芹沢の出身地を、わざわざ通っていくようなものだった。芹沢村は、潮来と水戸の間、北浦と霞ヶ浦の間にある。


(何にしても、妙なんだ)と山崎は思っていた。必ず助ける、と言ったらしいが、土方は早々と幕府軍に入ってしまった。流山の新撰組は解散したはずだが、意味不明な行軍を行っている。永倉新八達も、靖兵隊を作って会津に行く。


 何を考えて、新撰組が動いているのか、全く理解できなかった。そして、この近藤の一大事に、山崎は自分以外の見知った顔が居ないと言うことにも驚いていた。近藤は、慕われていたと、山崎は思う。けれど、なぜ、一人も、ここに居ないのだと思う。身の危険を感じてのことであるというのならば、許し難い。今から、自分の大将が首を差し出すのだ。なぜ、この場に、誰も居ないのだ! 新撰組とは、そのような、軽佻浮薄な集団だったのだろうかと、山崎は足下がぐらついていくのを感じた。


(近藤さん……)


 竹垣に縋り付くと、役人が「そこな医者、下がれ!」と鋭く命じる。大人しく、竹垣から身を離す。未だ、近藤の姿は見えない。と、ざわめいていた刑場が、しん、と静かに為った。土を踏みしめる音がする。丁度小雨のせいで、足下がぬかるんでいる。ぴちゃぴちゃと、不愉快な泥の跳ねる音がしていた。


 駕籠が、到着した。罪人を運ぶ為の駕籠だった。まっさらな亀綾かめあやあわせを着た近藤は、沐浴潔斎も済んでいると見え、さっぱりとした様子だった。刑場においても威厳を失わないその姿に、山崎は、今から刑が行われるなどというのは、たちの悪い冗談ではないだろうかと思うほどだった。けれど、冗談ではない証に、近藤は、腕を後ろ手に縛られて、腰縄を付けられた姿だった。


 役人達が慇懃に近藤を茣蓙の上に進むように告げ、近藤も大人しく従う。近藤は、座る間際に、一度、ぐるり、と刑場の見物客を見回した。みな、睨まれた、と思い息を呑んだ。さすがは、新撰組の近藤局長だ、と山崎は、その一睨みを嬉しく思った。最期で、雄々しい姿を失わずに居る近藤の誇り高い姿を、何よりも山崎は敬愛していた。


 羽織姿の、やや緊張した面持ちの横倉喜三次が側に立った。手にしているのは、近藤の愛刀・仁王清綱だった。


「なにか、言い残すことは」と横倉喜三次は近藤に聞いた。近藤は、「何もない」と言い切った。「よろしく頼む」と横倉喜三次に告げ、もう一度、刑場を見回して、近藤は、ふ、と表情を和らげた。小さく、口元が動く。


(え?)と山崎は目を疑った。山崎は、監察部で働いていた時に、様々な場所に出入りをしていた。薬売りに扮装して、情報を探ったこともある。そんなときに、培ったのが、唇の動きを読む方法だ。完全に、文意を把握できる時と、そうでない時があるが、近藤の言葉ならば……間違えることはないと、山崎は思っている。




『これで良いのだ』




 近藤の、それが最期の言葉だった。


 横倉が声もなく、素早い動きで抜刀する。銀色の刃が、天頂を指す。その瞬間、ほんの一瞬だけ、雲の切れ間から、太陽がのぞいた。銀色の刃は、紫電の様に、光り輝いて、それが、躊躇いなく、近藤の首にめがけて一直線に落ちた。


 見物人達の、悲鳴や、怒号が響き渡る。山崎も、訳もわからないままに、遮二無二何かを叫んでいた。


 ぼとり、と泥濘ぬかるみの中に首は落ちた。落ちた弾みで、ころん、と転がった近藤の首の上に、羽織がかぶせられ、そして、首はどこかに持ち去られた。おそらく、一度清めてから、罪状と共に、晒されるのだ。


 茫然と地面にへたり込んでいる山崎に、横倉喜三次は一度、深々と礼をした。それから、山崎は、どうやって、今戸八幡まで戻ったか、良く覚えていない。




『京都新選組之頭を勤め


 また東下し大久保大和と変名し


 甲州勝沼、下総流山において官軍に抵抗し


 上は朝敵、下は德川の内命と偽り


 容易企てに及び候段


 其罪 数ふるにいとまあらず


 よって処刑に行なうもの也




  慶応四年四月廿五日』




 これが近藤の首に掲げられた、罪状だった。


 近藤の首を引き受けようと、松本良順と共に板橋の東山道総督府に申し出たが、願いは叶えられなかった。近藤の首は、これより京に運ばれて、晒されるのだと冷たく告げられた。


「……私は、会津に向かうが、山崎殿、あなたは、これからどうなさるおつもりですか?」


 静かに問いかけた松本良順に、山崎はしばしの暇乞いをした。近藤の首級を手に入れ、懇ろに弔った後には、必ず、松本良順の元に帰ると言い残した。松本良順は、いつまでも、待つ、と告げた。


 近藤の首は、三日、板橋に晒された。その後、東海道を上った。山崎も、東海道を上っていった。再び、郷里である上方に来る日が来ようとは、山崎は想像もしていなかった。



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