翌月初め、新撰組は、甲州に出兵した。失策が相次いだ。援軍が必要だと思った時に、近藤は、土方を江戸に戻した。土方は、甲州の戦いに参加させなかった。
時々、近藤は、こういう采配をする。重要な場所から、土方を外す。それは、近藤のクセのようなものだった。土方は、特に、何も言わないが、隊士達は、不審そうな目で見る。
近藤の傍らには、常に土方がいるような、そういうイメージがあったからだろう。
しかし、実際、新撰組の名を知らしめた、『池田屋事件』の時も、近藤は沖田・永倉と行動を共にしており、土方は別働隊だった。勿論、別働隊の長を土方に任せているわけで、土方の責任も重大だ。別働隊の土方は、池田屋ではない別の店を改め、池田屋組から連絡を受けてから、駆けつけた。一刻ほど、到着が遅れる。その間、池田屋では皆殺しの勢いだった。土方達援軍が到着してからは、捕縛路線に変更になった。敵を捕縛するのには人手が要る。味方の数が足りない時は、仕方がないので、敵を切り捨てていくほか無かった。池田屋の時は、数が足りないと解っていての突入であった。
そして、甲州である。甲州も、援軍が必要だとなった時、土方である必要はなかった。勿論、土方は交渉毎には適したポジションの人間ではあろうが、妙な話だ。伝令を何人か走らせれば良かっただけで、土方も、単騎早駆けをしたわけではなく、早駕籠に揺られていったというのだから、これも又、暢気な話だ。結局、甲州では、江戸に到着する前に、味方の敗走の知らせを聞くことになる。
この、甲州の遣り取りが、永倉新八を苛つかせた。永倉達は、近藤達に別れを告げ、出て行ってしまった。
近藤は、甲州に出た時、先はないことは解っていた。将軍の様子を誰にも語ることは出来なかったが、アレが、幕府の現実だと肌で知っている。それでも、甲州に出たのは、どこか一戦交えねば気が済まなかったからだ。それが、近藤の武士の矜恃だ。
三月十五日は、官軍による江戸城総攻撃予定日だった。それは回避された。江戸城は戦わずして、落ちた。
難攻不落、德川家康や藤堂高虎と言った築城の名手達が縄張りした、大要塞都市とも言える江戸は、一矢も敵に報いることなく、落ちた。戦わなかったことで、人命は守られ、町も焼かれずに済んだだろう。その代わりに、武士は矜恃を失った。
土方が髪を切ったのは、その日だった。元々、土方は鳥羽伏見の戦いの時から、もう、日本式の戦いでは、この先を戦い抜けないと見切りを付け、新撰組にも洋装を取り入れようとしていた。フランスの軍隊の隊服やらマントやブーツやらという洋装を、横浜の業者から仕入れ初めても居た。
土方や近藤は、武士ではなかった。だから、月代がない。髷は結っていたが、総髪であったので、髷を落とせば、洋装にも良く似合った。月代を作っていたもの達は、断髪しても暫く髪が伸びてくるまでの間、中途半端な頭で過ごしたことだろう。
髷を落とした土方から、その心を聞くことはなかった近藤だが、彼の中の士道は、髷と共に散ったのだ、と解った。まだ、武士であろうとする近藤と、武士であることを諦めた土方の間には、深い溝があるように思えた。
「……トシさん。切った髪は、日野にでも送ったのかい」と近藤は聞いた。「いや」と土方は答えた。「日野には送らなかった」
「じゃあ、棄てたのか」と重ねて聞くと、「いや……」と歯切れの悪い答えが返ってきた。珍しいな、と近藤は思った。最も……お互いの間に、隠し事は多くなっている。道場で剣術稽古をやっていた時ならば、隠し事なんか無かったのにな、と近藤は思った。どこの女にちょっかいを掛けて痛い目にあったとか、どこぞの浪人と喧嘩になったとか、いくらの借金がどこにあるだとか、そんなことまで、全部知っていた。
「女にでも送ったか」と近藤は勝手に納得して、「でも、トシさん、江戸に女が居たとは知らなかった」と笑う。貧乏暮らしをしていた頃ならばいざ知らず、今や、土方が女に困ることはないだろう。
「トシさんも、そろそろ所帯でも持てばいいだろう。もう、俺たちは、幕臣だ」
「幕臣と言っても、明日どうなるか知れぬ身だろう。女を娶っても、仕方がない。女の方が、逃げてくさ」
「そんなもんかねぇ」と近藤は呟く。この時代の結婚は、特に、好きあって結婚するという概念が薄い。家格と条件が第一だ。近藤も、婿養子に入ったのだ。近藤家の婿養子になり、道場の跡とりになった。
「そんなもんだよ。官軍側の男の方が、先があるだろう。佐幕の男なんか、相手にもしてくれないよ。金で買える女ならともかくね、所帯なんか、持とうとは考えられないさ」
ふうん、と近藤は呟いた。呟いたが、その髪の行方だけは気になった。見慣れないので、妙な感じだ。断髪の土方は、どうにも、長いこと側に居た『トシさん』では無いように思える。顔は、よく見れば一緒だが、髪型一つで印象は随分変わる。身に纏うものも着物ではない。洋装だ。シャツにベスト、その上にジャケット。ズボンにブーツ。完璧な洋装である。肌寒いのか、マントも持っている。そこに、二本差しだけが、残る。それは、武士の誇りなのか、土方の意地なのか、二本差しを離さない。愛用の刀と脇差し。
幕末のこの時代に作られた刀は、どれもこれも、南北朝時代のような、長尺になっていた。江戸時代に入ると、刀は腰を彩るものに成り下がり、消費されることは殆ど無くなってきた。そんな時代の刀は、一尺五寸程度と短いものが多い。四十五センチちょっとという長さだ。それに比べると、土方の愛刀である和泉守兼定などは、二尺五寸もある。七十四センチほどだろう。江戸中期の刀と比べて、三十センチ以上も長いと言うことになる。
刀まで佩かなくなったら、本当に何者なのか、解らないなと近藤は思う。この洋装で、刀を振り回すのを想像してみたが、笑いがこみ上げそうになった。似合わない。ふと、近藤は、刀の他にも、土方の腰回りに物騒なものを見つけた。
「トシさん、これはなんだい?」
ひょいっ、と近藤は土方の腰から、短筒を抜いた。正しくは、短筒では無かった。短筒は、火縄銃のイメージだと考えればいい。フリントロック式で玉は、一発ずつしか撃てない銃だ。しかし、土方が腰に佩いていたのは
「……トシさんが、拳銃か……なにか、似合わないな」
「伏見の時に痛感したよ。これからは、刀じゃない」
と言いながらも、土方は後生大事に、刀を佩いている。しかし、いつの間に、こういったものを用意しているのだろう、と近藤は訝った。一月半ばまでは京にいた。そこからは、德川慶喜の警護に駆り出されたり、甲州に出兵したり、と、殆どの間、土方は、近藤の近くにいたはずだった。勿論、公用で離れることはあったが、公用ついでに出来るような買い物でもないだろう。第一、どうやって、こういったものを取り扱うもの達と、つながりを持っていたのか。
(トシさん。お前、一体、何の準備をしていたんだい)
喉元まで出かかった問いは、口に出すことはなかった。口にすることが恐ろしかった。