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第1話

 囚われの身の上というのは、実に暇なものである。入牢させられたわけではなく、板橋宿の脇本陣に押し込められているので、牢の中にいるよりは、随分待遇は良いのだろうとは近藤も解っている。板橋の総督府、と言っても、板橋宿の本陣を召し上げたものだったし、今、近藤が居る岡田邸も然りである。先日、山崎と合わせてくれた、横倉喜三次は、この岡田邸に出入りする剣術指南役だったらしい。


 暇だと言っても、居住まいを糺していなければならない。さすがに、十日も過ぎてくると、気力も萎えてくる。あと、どれほど続くものなのか、と近藤は思う。おそらく、香川敬三は、近藤の寝返りを期待している為、刑の執行を遅らせているのだろうが、確実に、死が待っている状態だと考えれば、いち早く処刑をして貰いたいとさえ思う。


 死など、恐れはしないつもりだったが、やはり、目前に迫られると、死は怖い。武士であろうとも、死は怖い。ましてや、


(俺は、ついこの間まで、百姓の小倅だったんだ……怖くて当たり前だ)


 その、死から逃れる方法は、ただ一つ。『新撰組の寝返り』である。けれど、近藤には、どうしても、その選択をすることは出来ない。ついこの間まで、百姓だった自分が、なにを賢しらに『士道』を口にするのかと言う気持ちもある。しかし、近藤は、己の生き方として、大恩と義がある幕府を裏切るようなマネは出来ない。近藤一人が、そんな義を貫いて、何が変わるわけではないと言うことをよく知っていても、だ。


 つい先月、幕臣の川路聖謨かわじとしあきらという男がピストル自殺した。


 佐渡奉行・勘定奉行などを歴任した後は、日露和親条約の締結にも尽力した官吏である。自殺したその日は、官軍による江戸城総攻撃予定日だった。結局、勝海舟達の尽力で、江戸は火の海にならずに済んだわけだが、川路は滅び行く幕府の道行きに相伴するように、ピストルで果てた。川路自身が高齢だったと言うこともあるが、幕府と共に散った川路の辞世は、


『天津神に 背くもよかり 蕨つみ 飢えにし人の 昔思へは』というものだった。


 蕨の下りは、伯夷の故事による。亡国の為に義を尽くす為、新しい国の粟を食べることを拒み、山野に入り蕨を取って餓死した。人としての正しさの為に、餓えて死んだ兄弟の清廉な行いを記した中国の故事である。川路は、強引に仕立て上げられた勤王の国が来ることに対して、命がけの抗議を行ったとも言えるだろう。たとえ、川路一人の死が、歴史の流れを変えることなど出来ずとも、そう、しなければならないのが、義だ。


 川路の死は、近藤の耳にも届いていた。幕臣として、義を貫いた川路の生き方を、誰もが出来るわけではないし、愚かだというものも居るだろう。自己満足と言われれば、それも確かにそうだ。しかし、武士として、幕臣として生きたいと願った近藤には、どうしても、川路の死に様を否定することは出来ない。つまり、それは、近藤以下の新撰組全員の命乞いも、出来ないと言うことになる。


 香川は、躊躇っている。近藤だけではなく、香川の前に立ちふさがれば、新撰組の隊士達は、敵として、逆賊として、処罰されるだろう。いま、香川の誘いに乗れば、少なくとも、命の保証は出来る。これは、局長と祭り上げられてきた近藤にしか出来ない決断だ。


 みすみす、犬死にさせたくないという気持ちが、近藤にはある。鳥羽伏見の戦いで、近藤は思い知った。もはや、幕府に、勝ち目はない。日本全土を転戦する間に、いくつかの勝利は納めるかも知れない。けれど、全体的には、大負けに負けるだろう。第一、もはや、幕府軍には、大将が居ないはずだ。德川慶喜は、江戸城開城の際の条件として、水戸蟄居を命じられた。


 そもそも、德川慶喜は、御三卿である一橋家に養子に出された、水戸藩主・德川斉昭の息子である。つまり、慶喜にとっては、水戸は『実家』になるはずだが、慶喜と水戸は、あまりにも関わりが薄い。大名の子息など、江戸で生まれ江戸で暮らすのが一般的だったし、江戸定府の水戸藩は、藩主すら参勤交代がない為に、水戸に戻ることは少ない。水戸では、藩主不在が当たり前だった。この辺の事情も、勤王論に傾く理由の一つになって行ったのだろう。


 慶喜は、水戸城内の学問所である弘道館に蟄居させられた。


 弘道館は、『水戸学』の最高峰の学問所である。御三家でありながら、勤王精神をみっちりたたき込まれる、その場所に蟄居させられたのである。実家に戻されたというような、優しい意味合いの蟄居ではなかった。さすがに、主筋に刃を向けることはないだろうが、水戸の勤王志士たちは、とりわけ過激派が多い。勤王の水戸学を横で聞きながら、静かに蟄居しているほかなかった慶喜は、ただ、ひたすらに耐え忍ぶ生活をこれから、長い間続けていくことになる。


 新撰組は、二月の十五日から二十五日までの十日間、德川慶喜の護衛を担当していた。德川慶喜は鳥羽伏見の戦いの跡、妻妾を伴って、とっとと江戸に引き揚げてしまっていた。その後正式に、朝廷から『朝敵』として討伐命令が出た時、上野寛永寺大慈院で謹慎生活を始めた慶喜の警護だった。


 迫り来る官軍と戦うというのならば、戦って散ろうと、近藤も新撰組のもの達も思っていたが、とうの慶喜は、すべてを諦めきっているようにも見えた。近藤は、警護の合間に、慶喜に謁見を求めたことがある。すんなり、目通りは許されて、慶喜と二人きりで話すことが出来た。通常、いくら近藤が『御目見得』以上だと言っても、ご老中や、他のもの達が居るはずであり、二人きりで逢うことなどは、常識的に考えられない事だった。


 近藤は、涙が溢れるのを止められなかった。


(幕府は滅びるのだ)と近藤は思った。まざまざと、実感した。声もなく泣く近藤の涙を見て、慶喜は「予はふがいない主だ」と告げた。「その方ら、新撰組は、伏見の戦いでも大層な働きであったと聞いて居るが、予には、それに報いてやることは出来ぬ」


 淡々と、慶喜は告げる。目の前の男が、新撰組の局長・近藤勇ということを、将軍が知っているのだ、と近藤は、そのことに感動した。新撰組は、ただ、がむしゃらに、時代をひた走ってきただけだ。それに、報いることは出来ぬなどと、将軍が、頭を下げた。


 もともと、浪人集団で、百姓やら破落戸やらの、どうしようもない烏合の衆の集まりだった『新撰組』を、上様がご存じだったという嬉しさと。こんな、下々の者に、将軍が頭を下げたという、どうしようもない悔しさがこみ上げて、涙が溢れた。悔しかった。ただ、悔しかった。


 ところで、鳥羽伏見の戦いから、この将軍は、いくつかの奇行があった。


『最後の一兵まで、退いてはならない』と厳命しつつ、自らの馬印である金的を戦場に置き去りにしての、戦場離脱。妻妾を伴っての、海路での江戸帰還。江戸に戻ってからは、やれ鰻が食べたいだの、鮪が食べたいだのと言って、周囲のものをあきれさせた。


(ああそうか)と近藤は合点がいった。(この方は、これ以上、御身の為に、命を浪費して欲しくなかったのだ)と近藤は思った。


 将軍が、兵を見捨てて逃げればあきれ果て、戦意を失い、忠誠も忘れるだろう。船で、女と共に逃げ帰ってもそうだ。この非常時に、季節外れの鰻を所望したり、将軍ならば、身の安全を考えて、饗されることが少なかった鮪などを求めるわがままをいったのも、こんな男の為に、命を賭けられるかと、出来るだけ多くのものに愛想を尽かして、見捨てて欲しかったのだ、と近藤は思った。声もなく涙を流し続ける近藤に、慶喜は言った。


「……これ以上の戦いは、すでに無意味だ。戦って散ることよりも、少しでも生き長らえることを、選んだ予は、臆病者だ。その方らのように、潔く生きることは出来ぬ。もはや、その方らは、このような不甲斐ない男を主とせずに」


 生きるがよい、と言うつもりだと、近藤は解った。近藤は、主の言葉を遮るのを非礼を思いながらも、その、決定的な一言を、慶喜の口から聞くことだけは出来なかった。


「我々新撰組はァッ!」と大音声で近藤は叫んだ。障子が、ビリビリと震えた。「最後の最後まで、上様の御為、德川幕臣として戦う所存に御座います! なぁに、上様の御身の周りには、旗本八万騎が控えて御座います。上様におかれましては、御心安らかに、過ごし下さいませ。朝敵のそしりなど、德川恩顧の旗本が吹き飛ばして見せましょう」


 呵々と笑う近藤を見て、慶喜は唇を噛んだ。德川家は、武家だ。その德川家、旗本八万騎が、ろくに戦わずして、德川が滅ぶようなことがあれば、武門として末代までの恥であると、近藤は思った。勿論、旗本八万騎が集うはずもない。だが、この動乱の時代に、運良くお取り立てになったとは言え、近藤始め新撰組は、幕臣だ。一兵も戦わずして主家の滅びを見届けたという誹りを、末代に残すわけにはいかないと思った。


 勝ち目のない戦はするな、と小さく慶喜は呟いた。大人しくしていれば、家名だけは残すことが出来る。それが、慶喜の精一杯なのだ。


 そして、德川宗家を追われたとしても德川家を護るという事―――恭順を示し続けるという事。それが、德川慶喜の戦いなのだ。


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