釈然としないまま、悶々とした日々を過ごしていた島田は、どうやら数日の間不機嫌にしていたらしい。同じ監察部の川島勝司に「島田君、最近、不機嫌だね」と笑われてしまった。土方が連れることの多い男でもあったが、少々、臆病なところがあった。
「不機嫌……ですか。それは、済まない」とだけ言った島田の隣に寄って、「島田君。少し遊びに行きましょうよ」と誘ってきた。これは、
「私は結構です」と断ろうとした島田は、何となく、(川島ならば、あの傷の意味を知っているだろうか)という気持ちになった。
懐は豊かとは言えるものではないが、川島と一晩呑むくらいならば問題はなさそうだ。
「じゃあ……」と島田は切り出した。「仕事ついでに、料理屋に行こう。志士たちが出入りしている店がある」
「なるほど」と川島は、ぽん、と手を打った。「それなら、飲み代は、局からでるかな」
「勘定方に掛け合って、土方さんあたりに小言を言われるのも敵わない。私が払えば問題無いだろう?」
「そりゃあ、悪いよ」と川島は言ったが、口先だけだ。悪いなどとは露ほどにも思っていない。島田も、よく解ったから「たまには、いいだろう」と言って苦笑した。
川島は、山城国出身と言うこと以外は、よく解らない。川島村の出身ということなので、郷士かもしれないし、土方たちのように百姓の出かもしれない。料理屋は、格好の情報収集の場所と言って良い。従って、島田たち監察は、良く、料理屋に出入りしている。揚屋などは、敵味方関係なく通う場所であるが、こちらは、口が堅い。それでなければ、つとまらないのが花町だ。昨日の客は長州人。今日の客は新撰組などということなど、ざらだ。
その点で行くと、料理屋は、酒が入って気が大きくなっているらしく、
三条河原の程近くの料理屋である。三条河原は、東海道の終点であるから、旅籠なども多く立つ。つまり、長州や薩摩訛りが通い詰めていたとしても、それほど気にならない場所である。言葉は、京言葉はあまり聞こえてこない。江戸弁や、もっと北の方の言葉―――これは、会津藩士なのかも知れないし、水戸者かも知れない。それに、薩摩などの南の言葉などが主だ。
「……こりゃあ、すごいもんだ」と川島は苦笑する。狭い店内に、むさ苦しい男どもが詰め込まれるようにして、酒を飲んでいる。少しの酒肴と酒をやりながら、大声で何事かを騒いでいる光景に、川島は圧倒されていた。川島は山城の出身なので、言葉は上方のものだ。島田もそうだったが、江戸詰が長かったので、江戸弁ならば、話したり聞き取ったりすることは出来るし、上方の言葉に比べて粗野に聞こえる江戸弁や、薩摩弁にも、あまり抵抗はない。
席に着くなり、何も言わずに酒肴と酒が運ばれてきた。島田は全くの下戸である。酒は川島に勧めて、自身は酒肴に箸を伸ばした。食べながら周囲の様子に耳を傾ける。勤王論を声高に論じる酔客の言葉を聞いて、苦笑する。どこかから借りてきたような言葉に酔って管を巻いているよりも、行動に出ればいいだろうに、と思ったからだ。けれど、多くのもの達は、『国を変える』などと大言壮語しても、行動に出ることは出来ない。勿論、だからこそ、人間の社会は成り立っている。みんながみんな、自分の主義主張を思うがままに行動したら、全員がテロリストだ。社会のシステムなど成り立たなくなる。
「……勤王の奴らが多いねぇ」とあきれたように川島が言う。「まあ、酒が呑めりゃあ、なんでもいいがな」川島は、ただ酒を呑めたので、満足なようだった。
「そういえば、島田君は……
「川島君、なにか、嫌な言い方に聞こえるね」
「そうかい?」と川島は笑う。「……このご時世、衆道だの義兄弟だのの契りを交わすのは珍しくもない。島田君たちも、そうなんだろう?」
島田は、(またか)と思った。山崎に君菊に、川島に。なぜ、こんなにも、みんな、そうだと思い込むものなのだろうか。
「……川島君。なぜ、そう思うんだ?」と島田が聞くと、川島は「
土方の腕にあった傷は―――誓いの傷跡と言うことになる。さすがに、島田は、元大垣藩士である。実際に衆道関係にあったものを見たことが無かったから、あの傷について、思い至ることができなかったが、風習だけは知っている。
川島の言うとおり、互いの体に傷を付ける。そして、血を啜る。固めの杯を交わして、衆道関係や義兄弟の関係を結ぶ。基本的に一対一の関係で結ぶものであるから、何人もの相手と、関係を結ぶことはない。それが、『義』に依って結ばれると言うことだ。
(では、土方さんは……誰かと、誓い合ったのだ……山崎君と近藤さんのように……)
それならば、と島田は思った。多くのものが、土方と義を結んだのは、島田だと勘違いをしているようだ。それは、土方にとって、不愉快ではないのだろうか。たとえ、土方が不愉快に思わず、むしろ、島田を、山崎・近藤の牽制の為に利用しているのだとしても、土方が義を結んだ相手は、不愉快には思わないのだろうか。
川島のことは、曖昧に、はぐらかすことにした。はぐらかしながらも、土方の相手というのは、一体誰なのだろうか、と島田は思った。少なくとも、局内には、その相手はいないのだろう、と思った。もし、局内に居るのであれば、その人物に脇差しを与えれば良い。しかし、実際には、土方が誓った誰か、ではなく、脇差しは島田に与えられたのである。
おそらく『義を結ぶのはただ一人』という大前提を考えた時に、島田には、義を結ぼうとは言い出せなかったのだろう。おそらく、土方は、そういう所は生真面目だと思った。その代わりが、脇差しだ。きっと、そういうことだ、と島田は思った。
(では、一体、土方さんが誓いを交わした相手とは、一体誰なのだろう)