君菊は、土方に三首ほど、和歌を書いた。細い水茎の流麗な女文字だが、芯の強さを伺わせる、強い文字だった。儚い中にも、
「……『春霞立つを見捨てて行く雁は 花無き里に住みやならえる』」
土方は、君菊の書いた和歌を見て、ドキリとした。
「春を……見捨てる……」と小さく呟くのを、君菊は見逃さなかったが、追求はしなかった。土方は、その衝撃的な語幹に、目を奪われているようだった。
「古いお和歌どす。宇多天皇の御息所の伊勢といわはる方の御作といいますよって、千年近く昔のお和歌ですやろか……三十六歌仙にも数えられるお人で、美しいお和歌が多い方どす。このお和歌は……」と君菊は一度言を切った。
(土方はんに、良うお似合いやと思って)と言う言葉を飲み込んだ。「雁が飛び去っていくのは、春先の……どこでも見られる光景ですやろ? 今は、北に行けば、奥州街道、その先には蝦夷地があって、さらに先には『ろしや』言う
「雁の道……」
「そうどす」と君菊は頷いた。「……こんなにも素晴らしい春を見捨てて、飛び去って行ってしまうくらいです。雁が戻る国は、さぞや、美しい場所であろうと考えられていたようですけど……この伊勢いう方は、花のないところに帰って行くと思うてはったんですな。『花の無いところに住み慣れているのだろうか』という意味になりますから」
「花のないところか……」と土方は呟いた。「北の方でも花は咲くだろう。さすがに京や江戸の花とは比べられぬだろうが……」
「伊勢はんは、どなたかを雁に見立ててお和歌を作らはったのかも知れません。美しい花を顧みることもない、薄情な男はんが、伊勢さんの思い人だったのかも知れませんなァ」
君菊の言葉に、土方は苦笑した。「俺が薄情だと?」
「薄情かどうかは存知まへん。ただ……
土方は首を捻った。女には、マメに対応している。マメに通うし、優しくも慈しみもする。女を抱くのも丁寧に抱く。一通り女が喜びそうなこともやっている。これで、情れないと言われるのが、よく解らなかった。
「……伊勢はんも、
土方は次に書かれていた一首を見た。
「『永き夜の遠の睡りの皆目覚め 波乗り船の音の良きかな』」
土方は小首をかしげた。見覚えがある。「……正月の宝船の歌だったか?」と土方は君菊に聞いた。君菊は静かに頷いた。
正月の初夢を見る際に、枕の下に宝船の絵を敷いて眠る風習がある。その宝船の絵に、書かれているのが、『永き夜の遠の睡りの皆目覚め 波乗り船の音の良きかな』という歌であった。意味を、土方は今まで考えたことはなかった。ただ、宝船の絵であるから、『波乗り船』などという文句が入るのだろうと思っていたし、弁天様が乗り込んでいる船だから、良い楽の音もするだろうと思っていたくらいだ。
「この歌は、伊勢はんほどやないですけれど、随分古い歌どす。意味は、土方はんが、好きに考えたらええと思います。一つ、面白いことがありましてな。土方はん、今まで気付いてはりました? このお和歌、上から読んでも、下から読んでも、『ながきよの とおのねむりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな』になるんどす」
土方は頭の中で反芻した。「ああ、本当だ。不思議なことだな」と感心した土方に、君菊は言う。
「……長い長い夢のようどす。何度も何度も、永遠に繰り返します。……けどな、初夢の宝船と、同じで、悪い夢やったら、水に流してしまえば、ええんどす。そら、実際に起こったことやったら、全部水に流すなんて出来るわけがあらしませんけど……。夢やったら、全部流してしまえばええんどす。……一期なんて、夢のようやって、昔の人はよう言いました。『一期は夢ぞ ただ狂え』かも知れまへんし、『四十九年一睡の夢』かもしれまへん。水に流して、最初っから、まっさらからやり直したらええんどす。だったら、やり直すのは、早いほうがええです。夢と現が、解らんようになったら、もう、戻れまへんから」