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第4話

 山口達が帰った後、島田は、うなだれる土方の上着とシャツを脱がせた。着替えを渡しても、動かないので、仕方が無くズボンも脱がせて夜着を着せてやった。西洋の服は、留め具ボタンが多く、脱ぎ着は面倒だ。ましてや、島田は慣れないので、時間は掛かったが、土方はされるがままという状態だった。これは、今まで、島田が見たこともないような、酷い落ち込み方だった。


 島田にも、土方の気持ちはよく解らない。近藤を身代わりに差し出して、自分は北の戦線に逃げたのは事実だろう。そこに、近藤を疎ましく思う気持ちが、少しでもあったのだろうと島田は思う。


「土方さんは……」と島田は聞いた。「なぜ、新撰組の局長にならないのですか? 近藤さんが今、新撰組を纏めることが出来るのは、土方さんだけではないかと思いますが」


 土方は、視線だけを島田に巡らせた。小さく、呟く。


「別に、新撰組が欲しかったわけではない」


 島田は意外だと思った。島田は、自分が、近藤を牽制する為に、土方に配置されていたことを知っている。そのことを察した時、島田は、土方の目的を、『新撰組』だと思った。近藤に成り代わり、自分が、新撰組の局長となる。それが、土方の望みだと信じて疑わなかった。


(だからこそ、次々と、局内の敵対者を始末したのだとばかり思っていた……)


「では……、土方さんの、望みは、一体、なんですか……? 幕臣に取り立てられることでしょうか……?」


 土方は、黙ったままだった。答えるつもりはないのだろう、と島田は放っておくことにした。すると、「島田」と土方が小さな声で呼びかけた。


「なんでしょう」と島田は土方の程近くに寄った。土方は、やはり顔も上げなかったが、


「―――今日は、膳に少し酒を付けるように、宿のものに手配を頼む」とだけ言った。


(やけ酒か珍しい)と思った島田だが、「承知しました」と受けて、宿のものに、土方の要求通りの注文をした。怪我に触らない程度の酒ならば、良いだろうと島田も思った。何にしろ、あんなに落ち込んでいる土方を見たくはないという気持ちで一杯だった。酒を飲んで愉快な気分になる人ではなかったが、たまには、愉快な気分になればいいとさえ、島田は思った。部屋に戻った時、土方は島田が適当に着せてやった夜着を、着直して居たようだった。足は怪我の件もあったので、畳の上に投げ出されていたが、先ほどまでの落ち込んだ様子は、微塵も感じられなかった。


「酒を、頼んで参りました」と、島田は土方の脇に座る。暫く、何かを考える様な素振りをしていた土方だったが、


「酒の件は、済まないね。……君は、近藤さんの件、どう思う?」と切り出した。


 島田は、先ほどの土方の激情を思い出し、言葉を選びながら言う。


「山口君の報告は、妙に、信憑性があります。けど、少々、出来すぎているような気もします。なんにしろ、諜報からの連絡を待つことが肝心と思います」


「……二十日もかかる」


「……馬を乗り継げば、あるいは、もう少し早く移動できるかも知れません」


 そうか、と土方は呟いた。やはり、土方の瞳に、落胆の色が過ぎった。重苦しい沈黙が、土方と島田二人きりの部屋に立ちこめる。島田が気まずくなってきたところで、


「失礼します、膳をお持ちしました」と宿の仲居が膳を運んできた。島田は、助かった、と思った。島田の分の膳も、一緒において貰った。土方には、先ほど頼んでおいたように、酒が付いた。


「君には、餅でも頼んでおけば良かったかな」と土方は少し笑って、酒杯を呷った。


「呑むことが出来れば、ご相伴しましたが……どうにも苦手なものでして」と島田は苦笑する。膳は、山のものが中心だった。近江出身の島田には、味が濃いと感じた。味噌一つとっても、味が濃い。実は、江戸に出てからというもの、食べ物は若干、辟易していた。土方は武州出身ということなので、江戸の食べ物は問題無く食べる。会津の食べ物も問題無いらしい。この味に慣れていれば、京の料理は、口に合わなかったのではないかと島田は思った。


「寒い地方だから、ですかね。こちらの食事は味が濃い」


 島田が思わず口に出すと、「なぁに、なかなか、京も塩味はきついものがあったよ。見た目はあっさりとしたもんだが、中身はきつい」と土方は笑う。


「上方の食べ物は、苦手だったのですか?」


「最初はね」と土方は苦笑した。「……京がどれほどのものか知らんが、武州の田舎の方がよほど飯は美味いと思っていたな。食い慣れたものが一番美味いと言うことだろうかね。まぁ、そのうち、飯の味など、どうでも良くなったがね」


 どうでも良くなった? それはどういう意味だろうか、と島田は思った。それは、顔に出ていたらしく、土方は語り出す。


「最初は、腹が減っていたから、飯さえ食えれば、なんでも良かった。この頃にかっ込んでいた飯と漬け物が一番美味かったかも知れないな。その後に、飯を食うのは、仲間を誘って話をする為の口実になったから、これも二の次。その次は、女と会うのに飯はあったが、食いたいものは飯の方ではないから、これもどうでも良い。次は、毒さえ入っていなければ、何でも良くなった。だから、京では、飯はどうでも良いものだった」


「食事に……毒など……そのようなことがありましたか?」


 島田は狼狽していた。島田は、一度も、その可能性を疑ったことはないらしい。


「やりかねん」


 むっと顔で呟く土方は、少なくとも、食事まで気を遣っていたと言うことになる。それでは、この人は、新撰組の局内では、ひとときも心が安まらなかっただろうな、と島田は思った。酒には弱い土方だが、絶対に、酒を過ごして醜態をさらすというようなこともなかった。副長という立場上、他の平隊士のように、馬鹿騒ぎが出来ないだけかと思っていたが、そういうわけではないようだった。


 今飲んでいる酒は、半ばやけ酒だろう。普段ならば、舐めるように呑んでいるのが、勢いよく杯を空けているのを見ても、解る。無茶な飲み方だ。止めるべきだろうが、少なくとも、島田を信用しているのだろう。


「……いざさらばァ 我も波間に漕ぎ出でてェ あめりか船をォ うちや払わん」


 酔った土方が、小さな声で歌っていた。


(断髪洋装の土方さんが、今更、攘夷というのも、変な話だな)と島田は思った。アメリカに対する気持ちはどうかわからないが、土方は、伏見の戦い以降、西洋軍事に興味を持っている。少なくとも、時代はそうなってしまったから、土方も、西洋式の軍隊の研究を怠らない。大鳥圭介や秋月登之助あたりと親交をもったのも、この辺が理由だろう。土方は、『実戦』を動かしたことのある指揮官だ。戦場で身についた実学と、西洋の理論は、彼の中で上手く理屈が通ったのだろう。理屈さえ通ってしまえば、土方は合理主義者だ。一番、効率がよいと思うものを採用する。それだけだ。


 しかし、酔いが回って愉快な気分になったのだろうか、歌など珍しいな、と島田は思った。治療に専念するとは言ったものの、無聊を慰めるのに、女でも居た方が良いのだろうかと、余計なことまで気を回してしまう。


「どうした、島田」と土方は聞いてきたので、「女でも呼びますか」と 聞くと土方は苦笑して足を指した。「この足じゃあなぁ……俺は仕方がないが、お前はどうなんだ? 俺は気にせずに楽しんできても良いぞ」


 さすがに、土方がこの様子では、島田一人で楽しんでいるわけにも行かない。ただ、なんとなく口にはしないが、生き死にが掛かった戦場にいると、女が無性に欲しくなる。もしかしたら、明日死ぬかも知れない身の上である。なんとか、己の種を残したいという、生命の本能が疼くのかも知れない。だとしたら、生きているというのは、切ないものだ。


「島田。お前、いくつになるんだ?」


 不意に、土方が聞いた。


「四十……一、です。年を取りました」


 島田は笑った。三十六で新撰組に入ってから、五年。たったの五年だ。長かったようで、あっという間だった。京を駆け抜けた。大坂を駆け抜けた。そして、今や奥州会津にいる。こんな人生など、五年前は想像もしなかった。


「お前、京で知り合った、女が居ただろう。あの女と一緒になるのは考えなかったのか?」


 土方は不思議そうに聞いた。島田は、西村サトという女と知り合った。土方にも合わせたことがある。サトと知り合った時には、すでに三十代後半だったので、彼女と一緒になるかどうかは、島田の方がいささか躊躇った。躊躇っている間に、京を離れることになってしまった。


「……待っていてくれれば……、戻ることがあれば、一緒になりたいと思いますがね」


 それは無理でしょう、という言葉を島田は飲み込んだ。戻る、つもりはない。この道行が、どこに向かうのか、土方にも島田にも、だれにも解らない。ただ、解ることと言えば、この道は一本道で、戻り道など用意されていないと言うことだ。片道通行は、逆戻りできない。もう、京には、戻ることは出来ない。そういうことだと、島田は覚悟している。


 サトには、惚れていた。一緒になりたいとも思っていた。だが、無理だろう。島田は、胸の微かな痛みを悟られたくなくて、話を逸らすように、


「土方さんも、どなたか、一緒になろうとした女はいなかったんですか?」と聞いた。


 土方の女は、どれもこれも、芸妓ばかりだった。一人だけ、囲っていた女が居る。君菊。美しい女だった。


「……いないよ」と土方は笑った。


「そうですか? ……北野の君菊さんなどは、良くお通いだったと思いますが」


「そうだな。あれは……いい女だったな。頭のいい女だった」


 懐かしむように、土方は言った。「俺では、釣り合わんよ」と呟いた土方が、うと、と船をこぎ始めた。そういえば、と島田は思い出した。


(この人は、酔っ払うと、眠ってしまうんだった)



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