『土方君に気をつけろ』
これは、芹沢鴨からの忠告だった。実際に、芹沢鴨は殺され、芹沢鴨殺しの切り込み隊長だった
近藤にそんな忠告をした芹沢だったが、土方に誘われるままに、当時厄介になっていた壬生の八木家に戻って、芹沢とその配下の平岡・平間も連れだって、四人で少し飲み直すということになった。土方・芹沢・平間・平岡の四人が、飲み直しの二次会を行うというのは、妙な話だった。芹沢は、解っていて、土方の誘いに乗ったのだ。
半月ほど前には、芹沢派の新見錦が、切腹に追い込まれていたし、芹沢は八木家で謹慎をしていた。その上、会津候から、芹沢処分の内示は下っていた。―――覚悟の上で、芹沢は土方の後をついて行ったのだ。
芹沢の言葉は、だからこそ、近藤の胸に深く突き刺さった。男が末期に語る言葉に、嘘はないと近藤は思う。芹沢の見立てでは、『土方は注意しなければならない』存在なのだ。
ところで、新撰組の隊内では、男色が流行っていた。男ばかり集まっていたからと言うわけではない。男色は、武士の世界では、『義』で結ばれるという思想ゆえ持て囃されたこともあり、一種の『美学』として行われることもあった。だが、新撰組の内部で男色が流行したのは、そんな思想めいた理由ではなかった。
己の保身の為だ。
義によって結ばれたものたちは、交わした義に背くようなことをしてはならない。自分の相手の命が危なければ、命がけで助けなければならない。それが戦場であっても、どこであってもだ。太平の時代ならば、この思想は、男色の美学である『死を賭してでも義を守る』という証を立てることが出来なくなり、最終的には、心中という悲惨な結果を招き、多くの死者を出した藩もある。実際に、岡山藩などでは、『衆道(男色)禁止』の令が敷かれることになった。
ところが二百五十年の太平の時代を経て、この動乱の時代である。再び、命を賭けた『義』の世界を生きることが出来るとあって、多くのもの達が、衆道の誓いを立て、『義』を結んだのである。
芹沢殺害が文久三年九月。御倉殺害が同年十一月。その頃、近藤は己の身を守ると言うことだけの為に、山崎を新撰組の『監察及び取調方』として採用した。山崎は、大阪の商家の息子だが、元々、出身が壬生村だった。その為、新撰組の当時の屯所であった、八木家や前川家には出入りしていた。多生の医学の心得があり、鍼灸も出来るようだったし、大坂医学館にも出入りして、医術も身につけているのも重宝された。
『監察及び取調方』として採用された山崎は、隊士達の動向調査や、各種情報探索などが任務だった。近藤が目を光らせなければならなかった『隊士』は土方であった。勿論、この監察および取調方というのも、土方の配下にある。山崎を近藤の直接支配下に置くわけには行かなかったし、そうすれば、土方が不審に思うだろうと考えてのことだった。それでも、同じ時期、土方のほうも、近藤の行動には目を光らせていたらしく、近藤を牽制するように、同じ時期に同じ『監察及び取調方』に在籍していた、島田魁に近づいている。この土方の行動で、近藤の疑惑は確認に変わったと言っても過言ではない。
近藤は、より、山崎と密になる必要があった。折角、土方の懐に入れた山崎を、土方に取り込まれるわけには行かなかったからだ。それで、ある夜、山崎を部屋に呼んだ。
部屋に現れた山崎は、面食らったようだった。近藤は、正装で待っていた。なにか、法度違反でもしたのだろうかと、山崎は思った。腹詰めを見届けるかのような、厳しい視線だった。近藤の前に座ると、す、と脇差しが差し出された。近藤がいつも佩いている脇差しだ。愛用の脇差しを差し出されて、いよいよ、これは切腹なのだ、と山崎は思った。
「山崎君」と近藤が言った。ハッと応じた山崎の声は、見事に裏返っていた。緊張と恐怖に、手が震えた。新撰組が、容易く『粛正』を行うことは知っていたが、まさか、身に覚えなど一切無いような状態で、腹を切らされるとは思っても見なかったのだ。
「今日、ここに来て貰ったのは、」と近藤は一度言を切った。じっと、山崎を見た。山崎は、脂汗をかいていた。近藤の言葉を、固唾を飲んで待った。どんな罪状だろうかと、そればかり、気になった。
「かねてより、山崎君を憎からず思っていた為、山崎君と義を結びたいと考えていた。それゆえ、来て貰った」
近藤の言葉に、山崎は気が抜けた。「切腹ではないんですか」と思わず聞き返していた。
「なんの落ち度もなく、任務一筋に打ち込んでいる山崎君を、切腹させるはずがない。それとも、なにか、土方君に嫌なことでも言われたのか?」
「いえ、土方副長は、そのようなことは一言も」
ふむ、と近藤は言って、膝を進めた。山崎は、後ずさりそうになったが、体が動かなかった。近藤の視線というのは、力強くて、周囲を圧倒させるものがある。気が漲っているというのだろうか、心の強さを感じさせる、強い視線なのだ。その、近藤の視線を、真っ正面から受けて、山崎は戸惑った。
「それで、山崎君。俺では、山崎君と義を結ぶ資格は無いか? それとも……他に、義を結んだ相手でも居るのか?」
真っ正面から聞かれて、山崎は混乱してきた。資格云々の話であれば、近藤は、義を結ぶのに申し分のない相手かもしれない。他に義を結んだ相手など居なかった。衆道の誓いは、一人のものとだけするものという思想もあり、一対一。主従すらも関係なく、対等の立場で、義を結ぶというのが前提になっている。近藤は、ずい、と身を乗り出してくる。膝が触れるほどに近づかれて、山崎は心底困った。近藤を拒否すれば、切腹でもさせられそうだし、他に相手が居るなどと嘘を言うわけにも行かない。そいつを連れてこいといわれたら、どうしようもない。
「局長は……」と山崎は視線を外した。「局長は、なぜ、私などと義を結びたいと仰有るんです。局長の周りには、お小姓もお仕えしていますし、局長を心底慕っている方も多いはずです。私でなくとも……」
「では、山崎君は、俺を慕ってはくれんのか?」
「いえ、そうではなく……私などは、新撰組では新参者です。皆様を差し置いて……」
何とか、言葉で逃げようとするが、何かを言えば言うほどに、逃げ場を失っていくような気持ちになった。そうこうしている間に、近藤の手が、山崎の手を取った。おもわず『ひっ』と声を出しそうになったが、声も出ない。
「俺が、命を預けても構わないと思ったのは、山崎君だけだ」
「そんな、嘘を仰有らないで下さい。局長のおそばには、土方副長や山南副長、沖田隊長……と、江戸からのお仲間がいらっしゃるではありませんか」
山崎の言葉に、近藤は、顔をゆがめた。苦々しいような、嘲笑のような、あまり良い表情ではなかった。そんな表情を浮かべながら、
「
(ここで、近藤さんを拒めば、俺は消される)山崎は直感した。それは、近藤にも伝わったらしい。近藤は、精悍な浅黒い顔に、微笑を浮かべていた。手が、震えた。
「……わ、私などでよければ……、局長と、是非、義を交わしたいと思います」
震える声で言う山崎に、満足そうに頷くと、近藤は、先ほどの脇差しを山崎の手に持たせた。何をするつもりだろうと、山崎は思った。義を交わす、と言っても、具体的にどうするか、よく解っていなかった。
「男同士の誓いには、証文のようなものは作らない」と近藤は説明を始めた。証文など残してしまえば、あとあと都合が悪くなることもあると考えて居るのだろうと山崎は思った。
「男同士が義を交わす時には、互いの体を傷つけて、血をすすり合う。それが、誓いだ」
血の誓約か、と山崎は納得した。頷いて、山崎は脇差しを抜いた。何度か、人を切ったことのある刀なのだろう。得も言われぬ凄味があった。
「どこをやるとか、決まりはあるんですか?」と山崎は聞いた。
「特に決まりはなかった。腕や、太ももに痕をつける事が多いとは聞いた」
そうか、と山崎は思った。血と傷跡に誓いが証文なのだ。だとしたら、跡が残るほどやらなければならないのだ。意を決した。足を崩し袴を絡げると、太股に、脇差しを突き立てた。自分の肉を穿つ感触は、あまり気分の良いものではない。冷たい刀身が肉を穿ち、暖かい血潮がにじみ出る。刀を引き抜くと、滾々と血が溢れた。それを見届けてから、近藤は、自らの腕に刀を突き立てた。
(剣を振るうのに、腕に傷を付けたりして良いのだろうか)と山崎は思った。山崎の方は、そこまで気を遣ったわけではなかった。あまり、この痕跡を人に知られたくはないと思ったから、太股に刀を突き立てただけだ。
近藤の腕からも、血がにじみ出す。暫く、それを見つめていた近藤は、唐突に身を伏せた。身を伏せて、おもむろに山崎の太ももの傷口に唇を寄せた。思わず、近藤を引き離そうとしたが、近藤の言葉を思い出した。
『互いの体に傷を付けて血をすすり合う』
その通りのことを実践しているのだ。男に太股を舐め回される嫌悪感に、山崎は目を瞑る。心底、腕にしておけば良かった、と山崎は思った。見る人が見れば、こんな太股に、不自然な刀傷があれば、何の傷か解るだろう。その時、ここに、近藤が口を寄せて、血を吸ったのだと、解ってしまうのだ、と思った。
(……きっと、沖田さん、土方さん、山南さんには、見られてはならないんだ)と山崎は思った。ひとしきり舐め回されたあと、近藤は自分の腕を山崎に差し出した。太股をさんざん舐められたあとで、山崎はまともな思考も、羞恥心も消え去っていたので、近藤が求めるままに、傷口を吸い、舐めた。
「これで、我らは『義』で結ばれたのだ。この、誓いの傷を作った脇差しは、お前に持っていて貰いたい」
近藤から脇差しを預かり、山崎は落ち着かない気分になった。落ち着かない気分だったが、腹は決まった。何はともあれ、誓ってしまった。誓わなければ、きっと、命がなかったかもしれないのだから、仕方がない。
(近藤さんに、任せておけば良いんだ)と山崎は決めた。肩を抱き寄せられ、口を吸われた。そのあとの事を、山崎は良く覚えていない。気がつけば、朝になっており、起床の時刻になっていた。それが自室だったのか、近藤の部屋だったのかも解らない。ただ、そのまま、急いで支度をして、朝稽古に参加する時、異常に体中が痛んだのと、太股に付いた傷跡と、山崎の手元に残った脇差しが、昨夜の出来事が夢ではなかったのだと告げていた。
なんとか朝稽古をこなしたあと、通路で近藤・土方とすれ違った。立ち止まって挨拶をしてから、妙に気恥ずかしくなって、顔が熱くなるのを、土方に気取られなければいいと思っていた時、背筋から冷水を浴びるような言葉が聞こえた。
「……山崎君。右足、怪我をしたのならば、薬をやろうか。知っているだろう? 私の家に伝わる散薬があってね。良く効くよ」
ぞっとした。右足を、特別かばっていたわけではない。なぜ、解ったんだろう、と思った山崎は、黒い袴に、ほんの少し、血が滲んで付いているのに気がついた。小指の先ほどの、黒いシミが、黒い袴に付いただけのものだ。どれだけ、土方は細々と子細を観察しているのだ、と思った。それに、表面上は、『優しい副長』だが、ひしひしと、悪意と、敵意を感じた。背筋が震えた。恐ろしくて、後ろを振り返ることが出来なかった。きっと、穏やかな微笑みを湛えているのだろうと、山崎は思った。
「く、薬でしたら……大丈夫です。私も、薬には、詳しいですから」
「ああ、そうだったね」と土方は笑った。「山崎君が来てから、すっかり局長も山崎君贔屓でね。最近じゃ、『石田散薬』も呑んでくれないよ。そうそう、山崎君。今日は、すこし外に出る用事があってね。一緒に行って貰いたいんだ。近藤
系統図上は、山崎の直属は土方だ。山崎にも近藤にも、断る権利はない。
「それは構わないが、外に出る用事とはなんだ?」
「市中見回りですよ。私も、市中安全の為に、たまには見廻りをしなければと思っていたところでした。一人で外出はしない