「……なんだよ、近藤さん、教えてくれよ」
と我知らずに呟いて居た土方は、長い夢を見ていたことに気がついた。懐かしい顔ぶればかりだった。死の間際には、懐かしい顔ぶれを思い出すという。
(そういえば、沖田もそんなことを言っていたな)
それにしても、長い夢を見ていたものだ、と土方は思った。外を見やれば、まだ、夜も明けていない。東の空は白んでもいない。実際眠っていたのは、ほんの数時だったのだろう。そういえば、杯を一気に呷ったのが良くなかったのかもしれない。頭も、ぼんやりと、鈍く痛んでいた。
(それにしても)と土方は夢の内容を思い出した。懐かしい顔ぶればかりだった。芹沢は土方が暗殺した。山南はやはり、土方が処分を決断し、切腹させた。井上源三郎は、鳥羽伏見の戦いで戦死した。井上源三郎は、土方・近藤とは同郷だった為、土方も良く、行動を共にしていた。思い出したくもない、と思っていた芹沢なども、苦々しい気持ちはあるものの、やはり、懐かしい。芹沢の粗暴な振る舞いには、ほとほとに困ったが、話をするのは嫌いではなかった。正気ならば、話は出来る人間だった。芹沢から、水戸学に付いて聞く事もあったし、雑談程度の話をする事もあった。そして、正気だろうが、酔っていようが、土方が剣を交えたら、まず、敵う相手ではなかった。
(だから、話はしていたんだ)
道場派閥だけしか話もしないというのは、了見が狭いだろうという思いもあった。折角、いまはとりあえず同じ隊の『朋輩』であるのだから、そこは、広く付き合った方が、見聞も広まるだろうという、好奇心が働いた。土方は、武士に憧れて武士道を貫いたという見方をされてはいるが、意外に合理主義者である。戦装束に洋装の方が向いていると解れば、積極的に取り入れるし、西洋式の軍事についても熱心だった。新撰組は、違反者即切腹という厳しい法度が有名だが、あれも合理主義の産物である。厳しい法度で隊を引き締めておくことが、隊の強化に繋がった。斬って斬って切り抜ける以外に生き残る道がなければ、そうするしかない。最初の局内法度違反での切腹は、新見錦という局長だった。勝手な金策をしたというのが理由に挙げられているが、詳細不明だ。
一番最初に、局長を粛正しておいたのも、
(芹沢さんは、影響力が強すぎた)と土方は思った。壬生逗留も一月を過ぎた頃、土方や沖田は、不満ばかりを言っていた。近藤が、芹沢の思想に感化され、さらには芹沢と肩を並べて、試衛館道場組を家来のように扱うことが、時折あった。粗暴な振る舞いこそなかったが、芹沢が二人居るかのような錯覚を覚えるほどだった。近藤はあの頃、芹沢になりたかったのかもしれない。
(考えても仕方のないことだ)と土方は目を閉ざした。いくら過去を振り返り思い出したところで、過去を変えることは出来ない。たとえ、間違った道を進んでいたとしても、戻ることは出来ない。選んだ道を、後悔したこともない。(思い出語りなど意味もない)
ふいに、土方は近藤が愛読していた頼山陽を思い出した。近藤は、『日本通史』などを愛読していたし、頼山陽を真似て漢詩を作っていたのも知っている。男子の学問として、漢詩は、和歌などよりも一つ上の教養とされていた。戦国時代の武将でも、漢詩が伝わる武将は、教養が高いとされている。しかし、戦国時代は、下克上の時代でもあった。漢詩を作ることが出来る武将というのは、限られた存在だったのである。特に有名な作を残しているのは、上杉謙信、伊達政宗、直江兼続などであった。天下の陪臣とたたえられた、直江兼続などは珍しい例で、現存して伝わるのは、殆ど漢詩ばかりである。
土方には、近藤の漢詩の善し悪しなどはわからない。近藤は、書流も雄々しいものを好んでいたので、堂々とした墨跡で書かれた漢詩を見ると、意味もわからずに圧倒されてしまう。大人しく、ゆっくりと鑑賞など出来る雰囲気のものではなかった。
ふいに、土方は、誰かの言葉を思い出した。近藤の言葉だったのかもしれないし、他の誰かの言葉だったのかもしれない。
過去を振り返るのは、愚かなこととは思わない、とその人は言った。いつまでも過去を引きずるのならば、それは愚か者のすることだが、過去を振り返り、同じ間違いを二度繰り返さないようにする為に、歴史は書き留められるのだと。