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第4話


 一行が上洛したのは、文久三年二月二十五日の事だった。


 上洛した浪人達は、壬生村に逗留することになった。壬生狂言や壬生菜で有名な、と道中、山南に教えて貰ったが、土方にはなじみのないものなので、あまりピンとは来なかった。京は、天皇のおわすところで、あまたの公家が居るところであるから、さぞや優雅な雰囲気なのだろうと想像していた土方は、京が、江戸以上に緊迫した雰囲気に包まれていることに違和感を覚えた。


 しかし、文久三年の時勢を考えれば、京洛が緊張しているのは当たり前のことである。世の中は、攘夷や尊王論に揺れ、大いに乱れていた。この度の浪士隊の招集も、緊迫した京に将軍が上洛するというので、その先遣隊として入ったというものである。


 浪士隊の募集の第一に、『攘夷の決行』とあった。これは、天皇(諡号孝明天皇)が、将軍德川家茂に攘夷の決行を命じたことが大きいだろう。形ばかり、浪人でも隊を整えて、『攘夷の為の準備をしております』と天皇に報告しなければならないからだ。


 将軍の上洛は、三月四日。その後は、天皇の石清水八幡宮への行幸があり、浪士組も街道警護が予定されていた。その後、将軍は大坂城に入る予定であり、攘夷を決行するというのが一応の筋書きである。石清水八幡は、八幡神である応神天皇、神功皇后を祀った神社である。八幡神はもとより弓矢の神・武神として名高い。その上、神功皇后と言えば、熊襲征伐、新羅遠征を率いた皇后である。夷狄制圧の祈願には相応しい神社と言えた。これも、幕府に対する、朝廷からの圧力に他ならないだろう。


 上洛した隊士達は、逗留先の各家で一晩を過ごし、お目付役からの指示があるのを待つことになった。土地勘がないと、お役目に支障が出るだろうと言うことで、二三人ずつ、組になって京洛を歩き回ることにした。


 江戸という町は、幕府開闢に際して、徹底的な町作りがされている。というのも、もともと、湿地帯だったということで、開墾をしなければ、人の住む場所を作り出すことが難しかったと言う理由がある。德川家康は、大名達に金を出させ、江戸の町と城を普請させた。いざというとき……つまり、大名達が反乱を起こし、江戸に攻め入ってきた時のことを想定し、城までの道筋は、あちこちを回される造りになっている。その感覚に慣れていた浪士達は、まず、碁盤目状の町並みに違和感を覚えた。どの筋から来たのか、解らなくなる。慣れれば、場所を聞けばどこになりとも行けるようになるのだが、慣れるまでは難儀する。さすが、千年続いた都は、このような造りになっているのかと、感心しながら歩く。あれこれと物珍しいものばかりで、きょろきょろと辺りを見回しているのだから、どこから見ても田舎からの風情だ。しかし、その、も浪士組だけではなく、きつい訛りを聞くからに、薩摩や長州といった諸藩からの浪人達が流れ着いてきているのだろう。随分、二本差しが多く、殺伐としている。


 ふと、人のざわめきが聞こえた。


「晒し首や」と言う声が聞こえた。土方と行動を共にしていた、沖田・永倉もその声を聞きつけたらしく、「土方君、晒し首みたいですね。ちょっと行ってみましょう」と土方を誘った。この間の夜に見た、あの夢のせいで、あまり、首には関わり合いになりたくはなかったが、夢に左右されているのも甚だ不愉快だと思い直して、沖田たちの後ろを付いていった。


 たどり着いたのは、河原だった。土方は、息も出来ないほど、驚いた。ここは、夢に見た川そのものだった。河原を歩く感触も、橋も、すべて一緒だ。


「……首ではないようですね。木像でしょうか」と永倉新八が言う。おそるおそる見てみると、たしかに、木像だった。三体、ある。それと、位牌が置いてあった。ご丁寧に高札が掲げられており、足利三代将軍が『逆賊』であるという趣旨の文言が書かれていた。


「これは、大事件になりそうですね」と永倉新八が言った。


「大事件ですか?」


「ええ」と言いながら、永倉は、三条河原を後にして歩き始めた。人の気配が少なくなってきた頃、永倉は理由を告げた。


「要は、あの木像は足利将軍のものですが、要は『将軍』のものだと言うことです。あの高札をかいたものは、『将軍は逆賊』だと言いたいわけで、あのような仕打ちを考えたのでしょう。あれが、私たち浪士組が上洛した直後に起きているというのは、幕府に対する、挑発ですよ。何事もなければよいのですがね」


 永倉の言葉の意味を、このときの土方は半分も理解していなかった。河原に梟首されていたのが、木像で良かったと、心底安堵していたからだ。


 ともあれ、永倉の懸念は正しかったと言って良い。この『足利三代将軍梟首事件』を堺に、今まで穏健派を貫いてきた、京都守護職にして会津藩主の松平容保まつだいらかたもりが、一転して強硬派になったのである。


 土方達の運命は、この、三条河原に始まったと言っても過言ではない。


『足利三代将軍梟首事件』が無ければ、松平容保は、『新撰組』を用いて、幕末史を血で彩ることはなかっただろう。松平容保は、二代将軍秀忠の隠し子である保科正之の家系である。口に出すことはないだろうが、『将軍家』に繋がるものとしての矜恃は、人一倍強いものがあったのだ。将軍家を逆賊などと言わせて置くわけには行かなかったのである。


 壬生に戻った土方達は、今、三条河原で見てきた、木像梟首の件を同じ屋敷に厄介になっている隊士達に教えたが、永倉のような危機感を抱いたものは、やはり、少ない様子だった。


「……歳さん、これは、大事になるかもしれないなぁ」と近藤が呟いたのは、土方には意外だった。土方には、こんな子供の悪戯程度が、どうしたら大事にまで発展できるのか、想像も付かなかったからだ。


「歳さん。忙しくなるかもしれないな」


 近藤の声には、確信があった。なんで、確信できるんだ、と土方は不思議に思ったが、近藤はそれ以上、何も言わなかった。




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