土方は、特別『沖田の所に行く』と言って出たわけではなかった。無言で出て行った土方を見たものたちは、皆『近藤の助命嘆願工作』の為に土方が奔走しているのだろうと思っていた。
『近藤と土方は、
険しい顔をして足早に出かける土方に、行く先をわざわざ問いかけるものなど居なかったし、戻ってきた時も、苦虫を噛みつぶしたような、渋顔で居れば、嘆願が不首尾に終わったのだと気を遣って、なにかれと声を掛けることもない。
この日、土方は沖田の所を訪ねた他は、特に何かをしたわけではなかった。正しくは、こうだ。『助命嘆願のための何かをしたわけではない』。さらに『一人で少し考えたい』と周りのものに言っておけば、土方の部屋を訪なうものなど居なくなる。
(それに言っても、うまくいったモンだな)と土方はしみじみと思った。
(そうそう、最初は何だったか)と土方は思い出す。嚆矢は、土方も予期していないタイミングで放たれた。だが、それを
(最初は……永倉達の脱退だったかな)と土方は思い出した。
永倉新八は、新撰組の創立メンバーの一人だ。元々、福山藩の江戸定府取次役で百五十石取りの武士、永倉勘次の息子として生まれた。神道無念流の目録を十八歳で受けるほどの剣士で、それからは藩を抜け出して、道場荒らしなどをしていたらしい。その後、北辰一刀流の師範代わりに駆り出され、様々な場所での出稽古にも駆り出されるうちに、天然理心流の近藤勇と出会うことになり、近藤の道場に落ち着いてしまった。武家の子だけあって、筋がよい。文武両道と育て上げられてきたのだろう。藩を抜け出して道場破りなどをしていた割に、理屈っぽいところがあった。それが、土方は、『田舎百姓上がり』と見下されているようで、妙に癪に障ったのを思い出す。
永倉新八が、脱退するのは時間の問題だった。と言うのも、旗本に上がった近藤は、あたかも自分の『家臣』のように、隊士達を扱ったからであった。元々、福山藩出身の歴とした武家の出である永倉新八が、反発を覚えるのは当然だった。その上、『新撰組』から『甲陽鎮撫隊』と為った近藤達の初任務である、甲州・勝沼での戦いは、事実上、近藤の采配ミスで大敗を喫した。敗軍の将に、部下は冷淡だった。隊士達の何人かは脱走し、結果として、永倉新八たちの離反と為った。
(そこから先は、本当に簡単だった。……近藤さんはあの通りの性格だから、永倉を許しはしない。けれど、もう、新撰組時代の法度で縛り付けて、切腹させるほどの力も残っていない。……あとは、流山に誘導すれば良かったからな)
流山で『新しい隊士を募る』。大がかりな募集を掛けていれば、さすがに、東山道軍も気付く。『新撰組の近藤』の名前で隊士を募ったところで、東山道軍に嗅ぎつけられたら大変だ、ということで、幕臣になった時に付けた名前の『大久保大和』を名乗らせた。
これならば、敵の目を欺くことが出来る、と安堵させて、大がかりな募集を掛ける。そして、流山の屯所は、敵に囲まれることになる。
そして、近藤は『もはやこれまで』と覚悟を決めた。武士として、死ぬ覚悟だ。切腹しようとしたのを、必死で土方は止めた。
「……こんなところで死んだら、ただの、犬死にだ。近藤さんは、こんなところで死ぬ人じゃない。いまや、俺たちは、立派な『幕臣』で、ご老中達や有力者にもつながりが出来た。今は、投降してくれ。うまく交渉すれば、奴らの手に掛かることはないし、もし、そんなことになりそうな時は、俺が、必ず助け出す。どんな手段を使ってもだ」
(我ながら、臭い芝居だ。……役者のような面とは言われてきたが、中々、うまく行ったモンだ)と土方は笑う。
あの時、土方は近藤を切腹などさせるわけには行かなかった。東山道軍は、京洛時代の新撰組に恨みを持つものは多くいた。かの坂本龍馬を暗殺したのは新撰組だと、まことしやかな噂が流れていたし、多くのものを斬ってきた。まさか、敵方の首級を上げると言っても、旧主である德川慶喜の首を掲げるわけには行かない。特に、德川慶喜は、徹底的に『恭順』路線を取ってきた。大政奉還し、江戸城受け渡しまで決まっている德川慶喜の首を上げれば、今度は、東山道軍が非難されるだろう。
けれど、東山道軍は、今まで多くの
もし、近藤が切腹で果てたら、次の
(……俺たちみたいな『壬生狼』なら、首は一つで済む)
それが、土方の判断だった。確かに、京洛に名を轟かせた新撰組だったが、局長以下幹部全員の首を並べたところで、無意味だ。新撰組の様な田舎侍ならば、親玉の首一つあれば事足りる。逆に幹部全員も相伴して首を並べられたとなったら、新撰組の名は、赤穂浪士のような美談に仕立て上げられて、講談にでもされ、東山道軍への不信感を募らせる結果にもなりかねない。
(だから、俺は、近藤さんの首を売ったのさ………)
近藤一人の犠牲で済むならば、
(それに、俺たちは、『仲間』の中で裏切りをすることなど、日常茶飯事だったしな……)
一時は『仲間』だったものさえ、躊躇いなく斬ったのは、間違いなく土方自身だ。土方自身も、やらなければ、
(だから、今回も正しいのさ)と言い聞かせるが、どこか、気分が落ち着かなくなって、土方は、自問自答する。自分の信じた、美しい生き方を貫きたいが、同時に、今までの人生で、切望しながらもどうしても手に入れられなかったものが、目の前にぶら下がっているのが解ったからだ。もし、手に入れられるものならば、手に入れたい。生きながらえて老醜を晒すくらいならば、死んだ方がマシだと考えているものの、憧れ、求め続けたものを手にすることが出来るかもしれないという、好機に、土方は魅入られた。
(
迷うことはない……。土方は、これ以上、余計なことを考えたくなくて、膳に付けられた少しの酒を飲み干した。平素、土方はあまり酒をやらない。弱いのもあったが、なにより、酒を過ごして、寝首を掻かれる訳にはいかなかったというのが大きい。
(そうだ。俺は、誰も信用してこなかったさ。だから、
酒が入ったとたんに、体が億劫になる。まるで、一服盛られたのではないかと思うほどだが、確かに、ここ数日は、近藤の件で忙しく動き回っていた。その、疲れが出たのだ。