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永き夜の遠の睡りの皆目醒め
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代日本歴史
2025年01月16日
公開日
4.1万字
連載中
近藤勇の『首』が消えた……。

新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。

近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。

首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。


※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

第1話

 三条河原は、太閤秀吉の時代から、特別な意味を持つ場所となった。


 日本の大動脈とも言える東海道が正式に定められたのは、家康の時代になるが、東海道の西の終点がこの三条河原を跨ぐ、三条大橋である。秀吉の時代に三条大橋が石造りの橋に立て替えられたことから、交通の要所となったのであった。


 東海道の京洛への入り口ということで、かつて、この近辺には旅籠や両替商など建ち並び、賑わいを見せていたという。今日でも、沢山の人や車が行き交うこの三条大橋下の三条河原は、かつて、特別な刑場であった。


 歴史が大きな転換を迎えるとき、この三条河原は特別な首で彩られた。


 まずは、豊臣秀次とよとみひでつぐ。太閤秀吉の甥にして養子となり、豊臣家の後継者として育て上げられ、関白まで上がったが、悲運にも謀反の咎ありと言うことで非業の最期を遂げ、自刃後梟首きようしゆされ、また、その妻女も共に三条河原の露と消えた。この時、惨殺された妻子は三十数名とも言われて居る。豊臣一族の後継者である秀次が、老太閤に殺されたというのは、間違いなく豊臣家という一族の滅亡への初端となった。


 次いで、関ヶ原の戦いで、敗軍の将と為った石田三成いしだみつなり。戦力に劣り、地の利も悪かった德川氏に大敗を喫した結果、德川家が戦国乱世の勝者となり、主家である豊臣家を一大名に堕としたのであった。


 交通の要所である三条河原に首が晒されたのは、まずは見せしめであろう。おそらく、当時の日本国の中で、一二を争う交通量の場所であったのだろう。多くの人間が目にする場所でなければ、首を晒す意味がなくなるからだ。この三条大橋は、京洛の中心地に入るための重要な橋であった。産業・流通の要と言っても良いだろう。


 そういう意味で言うのならば、この河原を彩った首は、新しい時代のための『人柱』の様にも思える。人柱に拠って支えられた橋は、という。忌まわしい話だが、ほんの七、八十年前まで、この風習が残る地域があり、『あそこは人柱が埋まってるから』というような橋も存在する。


 時代が変わる時は、膨大なエネルギーを必要とする。それを受け止めるだけの『柱』を、この三条河原に打ち込まなければ為らなかったのかもしれない。


 そして、德川二百五十年の歴史が終焉を迎えた慶応四年、新たな『首』が三条河原を彩ることになる。


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