三条河原は、太閤秀吉の時代から、特別な意味を持つ場所となった。
日本の大動脈とも言える東海道が正式に定められたのは、家康の時代になるが、東海道の西の終点がこの三条河原を跨ぐ、三条大橋である。秀吉の時代に三条大橋が石造りの橋に立て替えられたことから、交通の要所となったのであった。
東海道の京洛への入り口ということで、かつて、この近辺には旅籠や両替商など建ち並び、賑わいを見せていたという。今日でも、沢山の人や車が行き交うこの三条大橋下の三条河原は、かつて、特別な刑場であった。
歴史が大きな転換を迎えるとき、この三条河原は特別な首で彩られた。
まずは、
次いで、関ヶ原の戦いで、敗軍の将と為った
交通の要所である三条河原に首が晒されたのは、まずは見せしめであろう。おそらく、当時の日本国の中で、一二を争う交通量の場所であったのだろう。多くの人間が目にする場所でなければ、首を晒す意味がなくなるからだ。この三条大橋は、京洛の中心地に入るための重要な橋であった。産業・流通の要と言っても良いだろう。
そういう意味で言うのならば、この河原を彩った首は、新しい時代のための『人柱』の様にも思える。人柱に拠って支えられた橋は、
時代が変わる時は、膨大なエネルギーを必要とする。それを受け止めるだけの『柱』を、この三条河原に打ち込まなければ為らなかったのかもしれない。
そして、德川二百五十年の歴史が終焉を迎えた慶応四年、新たな『首』が三条河原を彩ることになる。